はじめに
ソ連崩壊から10年後の2002年には、モスクワに一カ月語学留学したので、今回は「ロシアの京都」であるサンクトペテルブルグと旧ソ連であったバルト三国のひとつ、ラトビアの首都リガを訪問した。サンクトペテルブルグでは、エルミタージュ美術館を訪問するのが第一の目的であった。またラトビアは特にここでなければならないという国ではなかったが、バルト三国ではソ連崩壊後、国民生活はどうなっているのか、ロシアやロシア人に対してどういう感情を持っているのか、ロシア語はどれだけ市民生活に浸透しているのかなどに関心があったので訪問した。
ロシア・サンクトペテルブルグ編
ネフスキー通り近くにあったホテルの部屋
ホテルの隣の公園には図書館が隣接していた。その図書館の壁にレーニンの顔が描かれたプレートが貼り付けられていた。何が書いてあるのか見てみた。その内容は「レーニンは1993年~1895年、この図書館の熱心な利用者であった」であった。
古都サンクトペテルブルグ一番の有名な大通りである「ネフスキー通り」
同じく「ネフスキー通り」の風景
ホテルから海岸近くにあるエルミタージュ美術館に行く途中にある公園である。昔は何か有名な建物であったらしい。この写真を見ると、嫌な思い出がよみがえる。人生で初めてスリに会い、ポーチの中にあった財布をすられたのである。クレジットカードとルーブル紙幣すべてを盗まれた。ここで帝政時代の服装をした男女の写真屋がいたので、いい気持ちで彼らに挟まれて記念写真を撮って、通りへ戻った直後であった。すられたその瞬間はまったく気付かなかった。スリは公園でカモを狙っていたのである。たまたま近くにいた、7~8人の学生集団に「財布を盗まれた」と大声で叫んだら、一人の女子学生が即座に「ここはロシアだ!」と返してきた。まったく日本人男子として恥ずかしい限りである。すぐホテルに帰り、クレジット会社に電話すると「16万円引き出されています」と言われた。スリのプロの仕業である。おかげで近くの警察署に行って被害を届け、証明書を発行してもらうという良い経験をした。レーニンのプレートを見た直後だったので、「レーニンさん、あなたが望んだ国はこうじゃなかったでしょう」と言いたかった。
スリ被害の処理をした後、気持ちを取り戻し市内観光ツアーに参加した。「ネフスキー通り」を散策していた時、中年女性がいろんな市内観光のチケットを路上で販売していたので、「宮殿巡り」のチケットを買った。これは同じ観光バスに乗っていたグループの写真である。中央に写っているカバンをもっている女性がガイドである。バスの中で外国人は自分ひとりだったので、このガイドは「今日は日本人の方が、一人一緒にツアーに参加しています」と紹介してくれた。他の客は全部ロシア全土から来ていた。
宮殿正面全景
宮殿庭園
宮殿庭園
結婚式記念写真を撮る人が多い
ロシア人は、写真屋に依頼して、このように結婚記念写真をとるようだ
三人娘が葉っぱで作った頭飾りをかぶって、休んでいたのでパチリ。こういう習慣がロシアであることは初めて見た。秋の風物詩のひとつだ。こういう格好で街を歩いていた若い女性もいた。背の高い若いロシア人女性はこんな葉っぱ帽子をかぶって、街をしゃなりしゃなり歩いても様になる。
この子は小学校高学年くらいかな。
宮殿内部の立派な様子。江戸中期にロシアに流れ着いた伊勢の大黒屋光太夫が女王エカテリーナ二世に帰国を願い出るシーンを思い出す。
世界中から観光客が来ていた。このグループは自分たちとは違う隣のグループである。ガイドはドイツ語で案内していた。
これはエルミタージュ美術館前正面広場である。エルミタージュ美術館は一回ではとてもじゃないが、見られないので数回訪問した。ここは日本人も割合多い。弥左衛門の前に日本人の若いカップルが並んでいた。この広場をブラブラしていると、ロシア人の中年男性が寄ってきて「イクラの缶詰買わんか?」と言って話しかけてきた。当然どんなもんかわからんので断った。たまに買う日本人がいるのだろう。
エルミタージュ美術館のすぐ近くにある海岸通りを散策していると、「オーロラ号」が展示してあった。このロシア革命のノロシを上げた戦艦が今でも、記念に残されこのように展示されているとは知らなかった。
ラトビア・リガ編
ここを訪問した2010年当時は、1991年12月のソ連崩壊から20年ぐらいしか経過しておらず、バルト三国もこの時に独立している。更にソ連に編入した経過をみると、ちょっと複雑である。1795年にロシア領になり、ロシア革命が起きるとラトビアは独立を宣言した。これはレーニンとソビエト・ロシアが掲げた方針から判断すると当然だろう。その後、スターリン時代の1940年にソ連に編入されている。ここのところの経過は弥左衛門も大いなる関心を持って見ていた。だから今でもロシア語はどれだけ使われているのか、ロシアとロシア人への感情はどのようなものかなどに関心があった。日本人は「バルト三国」という言葉は知っているが、「地図上のどこにあるか」、また「三国の国名を言え」と言われると正確に言える人は少ないだろう。ましてや、「その首都はどこか」と問われるとお手上げだと思う。数カ月前にヒロシがやっている「BS朝日」の「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」でここ「バルト三国」を訪問した時の再放送をやっていた。弥左衛門はこのヒロシの番組が好きで欠かさず見ている。ここバルト三国は最近やっと、日本人も目を向けるようになってきた地域である。今、ロシア軍のウクライナ侵攻の危機が叫ばれる中、バルト三国の一つ・エストニアに米軍が派遣されている。
首都・リガ駅前広場である。ここからロシアやヨーロッパ各国行きの列車が出ている。正面中央にある建物が弥左衛門の泊まったホテルである。
同じく駅前広場である。右側の建物が駅舎である。通りにはロシア語の看板などはひとつもなかった。しかし、たまたま路上で並べていた本をみると、すべてロシア語の本であった。
旧市街地域である。ここで画家が自分の書いた絵を売っていたので、例によって、弥左衛門の海外旅行の楽しみのひとつであるので一枚買った。ヒロシはいつも「蚤の市」や骨董屋に目がいくようである。
大きな独立記念塔のようであった。自分で読もうとしたけど、言葉がわからず正確にどんな塔なのか不明である。ちなみにラトビアの言葉は印欧語ではあるが、ロシア語・英語・ドイツ語・仏語などとはまったく違う独特の言語である。
記念塔の傍に衛兵が立っている。近くはきれいに整備された公園であった。ここは数回訪れた。また、ここではないがソ連から独立する時、市民が集会を開いた広場に行ったけど、思いのほか狭かった。50メートル四方ぐらいだった記憶がある。観光案内パンフには、「ここで市民は独立集会を開いた」と書いてあった。また、旧市街近くにあった歴史博物館を訪問した。これも弥左衛門の海外旅行の楽しみのひとつである。展示の内容で憶えているのは、ソ連に併合された時、これに反対した市民の多くが逮捕・拘禁され、牢に入れられたことである。その時の自筆の手紙などが展示してあった。一通り、見終わった後、たまたま出口に若い学芸員らしき青年がいたので、「独立後の生活・経済状況はどうか?」「ソ連が崩壊して良かったか?」と質問してみた。答えは「まだ、独立直後なのでわからない。少し経つとはっきりするでしょう」ということであった。
ホテルから歩いて10分ぐらいの所にあった巨大な市場である。ここは屋外広場の露店である。食事は朝食以外すべて、この市場で買ったものか、建物内部の食堂ですませた。これがまた楽しい。露店を巡っている時、若い時日本語を習ったという中年男性と話をした。早口で「日本では多くの車が走っていました。私は赤い車が云々——-」と、その時覚えた文章を早口でしゃべってくれた。もちろん覚えている日本語はそれだけで、あとは忘れたという。
右側の大きな建物内部も市場である。商店・食堂が入っており、何でも売っていた。ここの建物内部の食堂で何回も食事をした。また店でフルーツやケーキを買って、ホテルの部屋でテレビを見ながら異国の味を堪能した。市場の人と会話するのも楽しみで、全員ロシア語を母国語のように話した。もちろんロシア人もいたと思う。もうサンクトペテルブルグでのスリ事件のことは忘れていた。
ここはどんな建物だったのか確認できなかったが、衛兵がきちんと立っていた。多分、政府庁舎などであろう。こんな警備が厳重な状況では彼らに聞くこともできないし、建物に近づいて確認することもできなかった。弥左衛門は外国へ行くと宮殿・大統領府などを警備する衛兵を観察するのが好きである。その国の国民の伝統と美意識が服装・しぐさ・交代セレモニーにあらわれている。過去に見たのは以下の国の衛兵である。ロシア・「赤の広場」のレーニン廟、韓国・38度線(板門店)、台湾・蒋介石廟、タイ・王宮。英国に行ったことはないので有名なバッキンガム宮殿の衛兵交代セレモニーは、是非見てみたいものである。一般的に衛兵になれるのは、連隊旗手などと同じく、背が高く成績優秀な青年軍人であるという。弥左衛門はこれらの衛兵をみると、国によって気候が違うが、どこでもそれなりの苦労があることを知った。だいたい衛兵は一時間ぐらいで交代するらしいが、立哨中は微動もしてはならない、まばたきもしてはならないらしい。韓国・板門店の衛兵と一緒に写真を撮ったが、人形かと思ったくらいである。ロシアでは冬は寒く、タイや台湾では暑い。しかし、目に汗が入っても汗をふいてはならないのである。こんな時は、他の平服勤務員がふいてやるという。このような話は台湾で衛兵交代を見た時、傍にいた平服勤務員に聞いた。
これはリガ旧市街をぶらついていた時、画家本人から買ったものである。今も、他の外国で買った絵と同様、家の中に飾っている。バルト三国は昔、ドイツ騎士団が支配したと言うので、どこかこういうドイツ風の建物があちこちに残っている。
(2022年2月11日記)
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