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【越中屋弥左衛門のぼっち旅(海外編)】第7回:船とシベリア鉄道の旅(2007年4月27日~5月4日)

越中屋弥左衛門の地球見聞録(ぼっち旅)
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はじめに

春のゴールデン・ウイークを利用して、シベリア鉄道横断の旅に出ることにした。弥左衛門にとって、シベリア旅行は二回目である。2002年のゴールデン・ウィークに、会社の長期勤続報奨制度を利用して一ヶ月のモスクワ語学研修を行った。

この時は時間を見つけて、名古屋でロシア語を習っていた先生の出身地であるシベリアの学園都市・ノボシビルスクを訪問した。それ故、今回のシベリア旅行の終点をどこにするか悩んだが、バイカル湖は絶対見たいこと、そして、それより西はノボシビルスクとよく似た景色が連続すると独断的に判断して、イルクーツクを終点にした。そして帰りのルートも、どうするか少し悩んだが期間が短い事などを考慮して、空路でイルクーツクから起点のウラジオストックに戻ることにした。旅行会社の人は、「中国経由で帰国するルートもありますよ、検討しましょうか」と言ってくれたが遠慮した。中国は、いつかゆっくり訪れたい。

この2007年の旅行後も、弥左衛門は定年退職後の長期ロシア語留学を念頭に、2008年の真冬にウラジオストックを訪問し下見をした。更に2010年10月に10日間の日程でロシア・サンクトペテルブルクとバルト三国のひとつ・ラトビアの首都リガを旅した。

今や、このようなルートを旅行することはウクライナ戦争とコロナ禍で不可能である。ロシアは現在、国際的経済制裁を受けて、日本人旅行者は街のあちこちにある銀行の自動支払機で金も下ろせない。日本人がいつになったら、この時のように自由にシベリアに行けるのか、今のところまったく見透しがたたない。新たに起こったパレスチナでの戦闘が国際情勢を一層複雑にしている

シベリア横断鉄道

シベリア横断鉄道の出発地・目的地・主要駅

鉄道の出発地はウラジオストック、目的地はイルクーツクにした。ちょっと見づらいが、薄く赤色に蛍光ペンで着色したのが、その鉄道ルートである。主要な都市は赤マークをつけた。

以下に記したロシア国内の時刻は、時間経過が分かるようにすべてウラジオストック時間で表示した。必要な場合は参考までに現地時間を表示した。ロシアは御存知のようにユーラシア大陸のほとんどをカバーする広大な国なので、日常生活は11個の地方時間を基準にして行われている。ウラジオストック時間は日本標準時より1時間進んでいるだけである。また、イルクーツクはウラジオストックより2時間遅れている。だから、そんなに時差ボケの心配はない。参考までに述べるならば、ロシアでは鉄道と軍隊はすべてモスクワ時間で統一されている。列車ワゴン通路には、モスクワ時間表示の時刻表が添付してあった。これを時々確認して、現地時間に換算する。また停車駅と停車時間もこの時刻表で確認した。そうしないと、今どこを走っているのか全く分からない。

この旅は、幸運にも全行程が快晴で暖かかった。「これがシベリアか!」と驚いてしまうくらいであった。実家を出発する時は寒かったが、日本より暖かく爽快そのものであった。準備した厚手の下着は全く不要であった。

以下がウラジオ時刻表示の列車の運行記録である。

ウラジオストック発(4/29、20:15) → ハバロフスク(4/30、9:00) → ビロビジャン(11:30)→ アルハラ(17:00、このあたりは木材の産地である) → ブレヤ(17:40、叔父さんが抑留されていたライチヒンスクの近く) → ザビチンスク(18:25) → べロゴルスク(20:16、ホームに降りてトマトとキュウリを買う) → スボドヌイ(21:45) → シマノフスク → アマザール(5/1、11:30)→ モゴチャ(13:00、草原には雪が、川には氷が少し残っている、例年より雪が少ないという、ここで初めて車窓から牛の放牧を見る)→ シルカ → カルイムスコエ(5/2、0:07) → チタ(5/2、4:21) → ヒロク(6:59) → ペトロフスキー・ザ・バイカリスキー(駅のホームにデカブリストの像があった) → ウラン・ウデ(11:42、モンゴル系の人が多いブリヤート共和国の首都) → イルクーツク着(5/2、18:58、イルクーツク現地時間16:58)

<旅行の全ルート概略>

上の地図に付した番号順に旅行の全行程を簡単に説明する。

〇 伏木港出発:4/27、18:00(日本時間)、 富山県伏木港から船でウラジオストックに向かう。弥左衛門は子供の頃から、いつかこの船に乗って日本海を渡ってみたいと思っていた。やっと夢が、かなったわけである。氷見市の実家で一泊して、翌日、甥に自動車で伏木港の岸壁まで送ってもらった。出発直前まで、忙しく荷物が積み込まれていた

〇 ウラジオストック港到着: 4/29、9:30(ウラジオストック時間)、ウラジオストック港に到着。ここで現地旅行代理店の人が待っていて、シベリア鉄道の乗車切符を受け取った。20:15の出発まで時間的余裕があったので、港の荷物預り所にスーツケースを預けて近くをブラブラした

〇 ウラジオストック駅発: 4/29、20:15、イルクーツクに向かう。この列車自体の終点はノボシビルスクで、イルクーツクまで途中乗り換えなしで、主要な駅に止まるだけである

〇 イルクーツク着: 5/2、18:58(イルクーツク時間16:58)、 イルクーツク到着、市内観光

〇 イルクーツク発: 5/4、4:35(イルクーツク時間2:35)、飛行機でイルクーツクを発ち、再びウラジオストックに戻る

〇 ウラジオストック着:8:45、ウラジオストック空港着、ここで少しの間、関西空港行きの飛行機を待つ

〇 ウラジオストック発:13:00

〇 関西空港着:5/4、14:00(日本時間、ウラジオストック時間では15:00)、わずか2時間のフライトで関西空港に着く

すぐに名古屋行きの列車に乗り、無事帰宅する。以上が旅の全行程の説明である。以下に具体的な旅の様子について紹介していく。

船で伏木港からウラジオストックへ

伏木港埠頭1

税関職員による乗船手続きを終え、さっそく部屋に落ち着いた。

この船は「ルーシー号」と言い、本来は客船と荷物船を兼ねている。しかし、この時は車両運搬船のような状況であった。ロシアの車政策はコロコロ変わり、複雑なので詳細は知らないが、この時は5万円以下の中古車なら旅行の手荷物として船に持ち込めたと記憶している。そのため、多くのロシア人「観光客」が富山県を訪れ、「みやげ」として中古車を買って、帰国後、高値で販売するということがはやっていた。もちろん自分の車を買いにくる「観光客」もいる。

今は中古車の輸出も、ウクライナ侵攻の対ロシア制裁の影響で2023年8月9日から小型のガソリン車を除くほとんどの自動車がロシアに輸出できなくなったとNHK富山放送局のローカルニュース番組が報じていた。それまでは新車は制裁の対象だが、中古車はそうでは無かった。そのため、逆にウクライナ戦争後、中古車の富山県からの輸出は増加していたという。円安に加えて、ロシアでは、社会情勢が不安定になると車の資産価値が増えるからである。弥左衛門はロシアでの日本車人気の高さは数回のロシア訪問で良く知っている。車でもレコードでも衣類でも、日本人がものを丁寧に扱い、修理もきちんとして使うので中古品の品質が良いことは、外国人は良く知っている。

出発まで時間があったので船上から荷物の積込み作業を観察していた。出発直前まで車やその部品、バイクなどの搬入が行われていた。ここにあるように日本製のタイヤも当然人気がある。富山県内のメイン国道である八号線近辺の古タイヤ置き場には、チェーンが張られロシア語で「無断侵入禁止」と書いてあった。また自転車にタイヤを積んで運ぶロシア人も散見された。タイヤも良い儲けになるのである。

 

伏木港埠頭2

手続きのために行列をつくるロシア人。ロシアはどこでも行列が大変である。これはソ連時代からの「革命的伝統」である。物資不足と官僚主義が要因である。それも行儀よく並ぶのでは無く、どうやって自分だけ得をするかという行動を取るのは、日本人から見ると極めて見苦しい。弥左衛門はロシア国内と世界の数ヵ所でこのような行動を観察している。西欧人も顔をしかめるほどである。この船の中でも、ウラジオストックに下船する際に、ロシア人乗客が出口に我先と殺到し、船長が「並べ、順番だ」と怒鳴っている光景をみた。

 

船室内

どんな船室になっているのか大変興味があった。

客船の本格的な個室に泊まるのは、これが初めてである。船で寝た経験は大学院生時代に研究室の慰安旅行で伊豆大島へ行った時、東京の晴海埠頭から出発して船倉の床にゴロ寝して大島に行ったことがあるだけである。

見たとおり大変立派な一等客室で二人部屋である。テレビもシャワー付浴槽もあった。伏木港でロシアの番組が見ることができるか、試しにすぐスイッチを入れたら見ることができた。これでゆっくり、船旅の暇つぶしができるので安心した。しかし、これは高い船代を払っている日本人のための船室で、船内で知り合いになったロシア人に部屋に招待されたので行ってみたら、二段ベッドが置かれた狭い4~6人用の部屋であった。

例によって彼らは酒で暇つぶしである。アルコールがほとんど飲めない弥左衛門は、こんな酒豪たちといたら酔いつぶれてしまうと思い、早々退散した。

 

船の客室部の廊下

このような廊下の両側に客室がある。

 

さらば 伏木港

今まで、日本海は海岸で泳いだり、富山湾氷見沖に見える虻が島に観光船で渡ったりしただけである。故郷の海岸を海の遠くから眺め、陸が見えなくなる光景を体験するのは初めてである。

 

音楽ホール

ブラブラと船室内を散歩した。この場所は客が多い時はダンスや音楽ホールとして使われたようである。立派な舞台と客席があった。この時は、相当の期間使われていないという感じであった。

 

山と積まれた中古車

船上に山と積まれた車。中央下部に見える四角い枠は本来プールであり、この中にも車が積まれていた。よくもこんな高い所に密着して積んで、船が揺れたら接触して傷がつかないかなと心配した。車と車の隙間は50センチも無い。そこでよく観察すると、実に上手くチェーンで引っ張って車を固定している。さすがに船員の仕事である。

 

談話室

ここは、乗客がリラックスできるカフェのようなところである。この横に食堂があって、食事の時間になるとアナウンスがあって、朝・昼・晩三食が食べられる。思ったよりしっかりした良い食事で、食後のケーキも付いていた。テーブル上に部屋番号が表示してあって食事が既に用意されていて、そこに着席すれば良い。ロシア人も日本人も関係なく同席である。日本人乗客は弥左衛門と若い女性の二人連れだけだった。ロシア人は100人位いたと思う。

ウラジオストック港到着

ウラジオストック港

船上デッキからみたウラジオ港岸壁である。貨物を降ろす大きなクレーンが右に見える。

 

ウラジオ港遠望

ウラジオストックは坂の町である。港が深く入り組んでいる分、街の平坦部が少ない。また、ソ連時代は極東海軍の主要基地だったので「外国人立入禁止」の町であった。今ではアジアに近いのでモスクワからプーチンがしばしば訪れて、国際会議も開催されている。左上の丘に建つ高い建物がその会場となるホテルである。中央左の建物がシベリア鉄道の起点であるウラジオストック駅である。だから港に接して鉄道が走っており、大変便利な輸送拠点であることがわかる。

港と駅を結ぶ陸橋

港を降りるとこの陸橋を渡って駅に向かう。各ホームにも降りられる。

 

ウラジオストック駅前広場

休日で天気が良かったためか、何かイベントも開催され相当な人出であった。

 

ウラジオストック中央広場

いろんな行事などが開催されるウラジオのメイン広場である。ここの広場の周辺に市庁舎やグム(百貨店)、書店、劇場、映画館などが集中している。

 

健在なるレーニン像

おなじみのポーズを取るレーニン像である。駅のすぐ前の小さな階段状の公園の高いところに立っている。弥左衛門にとって、このような伝統的な像や記念物がソ連崩壊後どうなっているのか確認するのも、この旅行の関心のひとつであった。ここでは引き倒されることも無く健在である。

 

パナソニックの大きな宣伝板

たまたま広場の端にこんなに大きなパナソニックの宣伝がしてあったので、パチリと撮った。ここに載っているビート・タケシはロシア人のどれだけが知っており、有名かどうか弥左衛門はあまり知らない。日本製の薄型テレビを買えるのはほんの一部の金持ちロシア人だけである。

 

音楽エベント

広場の中央でエベントをやっていた。何か春の音楽祭だったと記憶している。他の写真に写っていた舞台看板の文字を、今回正確に読んでみると、この広場に来た人は誰でも自由に見ることができる「青年伝統芸術祭」とあった。こういうエベントはロシアでは多い。あちこちで何回も見た。日本でいうと自治体の交響楽団や警察・自衛隊などの軍楽隊がオープン・スペースで気軽に質の高い音楽を演奏しているのである。これは日本も少し見習ったら良いと思う。但し、一時はやったような駅前などでの無届のレベルの低い演奏は良くない。

シベリア鉄道乗車

シベリア鉄道列車外観

これが乗車した列車である。窓に貼ってある紙に書かれた番号を確認して、その列車に乗り込む。号車番号は内側から紙で貼られている。チケットを確認してその号車番号の列車に乗り込む。注意すべきはこの番号が列車ワゴン内部には貼られていないことである。ウラジオを出発してからだいぶん経ってからだと記憶しているが、もういい気分になったウオッカ瓶を抱えた青年二人組が、よろよろと通路を歩きながら、「ここは何号車か?」と大声で聞いてきた。同室ワゴン内のベーラ(弥左衛門と同じコンパートメントの中年女性)が即座に「10号車だ!」と返答したら、もっと後方の車両によろよろと良い気分で向かっていった。こんなことは、どうもシベリア鉄道車内では見なれた光景のようであった。

 

車掌と乗客

中央が女性車掌、両側が乗客である。出発前のひと時である。カメラを向けると笑顔で応じてくれたのでパチリである。右側の女性が弥左衛門と同じコンパートメントになったベーラである。

後年、ロシア語留学時にこの名前を出して、ロシア人先生に話をしたところ、「だいぶん古い名前だね」と言っていた。弥左衛門は知らなかったがどうも日本人の感覚でいうと、「○○子」のような名前らしい。ウラジオストック中央広場近くの役所に勤めていると言っていた。ウラン・ウデまで行き、帰りは飛行機だと言っていた。

 

窓からの街の光景

出発直後のウラジオの線路周辺の車窓からの光景である。ソ連崩壊からそんなに経っていないので街はあまりきれいではない。聞くところによると、ロシア人は経済と生活改善に強力な指導力を持ったプーチンに期待しているという。

しかし、今度のウクライナ侵攻で、また十年ぐらいは生活改善が停滞するだろうと危惧する。同時にモンゴル系のブリヤート人を強制的に徴兵して前線に送ろうとしていると報道されているのをテレビで見ると、ウラジオ駅で見かけた民族服を着たモンゴル系の家族や、名古屋で話しを聞いたウラン・ウデからの留学生を思い出す。

 

列車通路

列車内の様子である。片側が通路になっている。右側に乗客用の各コンパートメントがある。4人が定員である。今回、弥左衛門はベーラと二人のゆったりした空間であった。この通路の奥にお湯が出る湯沸かし器が設置してある。このような湯沸かし器とトイレは各車両に付設している。

 

 

列車コンパートメント内

これがコンパートメント内部である。日本の寝台車より少し大きいぐらいのサイズといえる。日本のシベリア鉄道旅行者が通常利用する一等車ではない。弥左衛門は今回、ロシア人の普通の生活を体験するためにこの二等車にした。そして旅行中も車内レストランなどを利用しなかった。

よくシベリア旅行談に出てくる停車駅での食料買い入れを体験したかったからである。朝食のピロシキ(揚げパン)一個とミネラル・ウオーター一本は乗車料金に含まれている。これを客室担当者が毎回運んできてくれる。何もせずに列車の中で横になっているだけなので、朝食はこれだけでも特段腹が減ることは無かった。但し、注意すべきは、「飲み物は何にしますか?」と聞かれたので「ミネラル・ウオーター」と答えたら嫌いな「炭酸入り」だった。

次からははっきり「炭酸無しミネラル水」ということにした。また、テレビも無いし、同部屋のロシア人との雑談もいつもじゃないし、車窓からの眺めも延々と同じ景色だとやはり飽きてくる。このような時のために、旅の一冊として岩波文庫の「量子力学と私(朝永振一郎著)」だけは持参してきたので、時々寝転んで読んで暇をつぶした。

シベリア平原風景1

ウラジオを出発してしばらくすると、街はほとんどなくなり、このようなシベリア特有のツンドラ風景が広がる。これが延々と続く単調な車窓である。立っている電信柱でまっすぐに立っているものはひとつもない。だいたい少し傾いている。土壌がしっかりしていない凍土なのであろう。

 

シベリア平原風景2

たまにこのような集落が点在する。テレビでよく見る「世界の車窓から」と全く違う風景である。ヨーロッパの農村風景よりさびしい。家が古くて、真冬の暖房を心配するくらいである。

アルハラ駅・ベラゴルスク駅

アルハラ駅1

ハバロフスク、そしてビロビジャンを通過してアルハラ駅に到着する。このあたりは木材の産地である。多分、このあたりからの木材が伏木港に陸揚げされているのだろう。子供頃からシベリアからの木材が数多く伏木港に輸入されていたのをみている。そして港のすぐ近くにこの輸入木材を利用するパルプ会社がある。

 

アルハラ駅2

地図でみるとそんなに大きな町ではないが、綺麗に整備されている。ここをすぎて40分ぐらい行くとブレヤという駅を通過した。このブレヤ西方50㎞にライチヒンスク(旧ライチハ)という町がある。ここは戦後多くの日本人が抑留されて、強制労働に従事した町のひとつとして有名である。

弥左衛門の叔父さん(母の弟)は満州の電電公社に勤めていた時に現地召集を受け兵隊になった。すぐ終戦になり、そのままソ連に抑留されたという。仕事仲間5人で「絶対、元気でダモイ(帰国)しよう!」と誓い合い、そのために真面目に毎日ノルマを果たし働いたという。運よく初期の帰国組になれたと話していた。そして96歳まで生きた。

 

ベラゴルスク駅1

この駅ではホームに降りてトマトとキウリを買った。新鮮な生ものは大変美味しく感じた。

 

ベラゴルスク駅2

列車通路に貼られている時刻表の停車時間を確認してホームに降りる。この時刻表は前述のようにようにモスクワ時間で書かれている。この時刻表で今どこを走っているのか、次の停車駅はどこか、そして停車時間は何分かを確認する。ところどころで20分ぐらい停車する。そうするとこのように多くの人がホームに降りて気分転換や買い物をする。

ホームではいろんなものを売っていた。弥左衛門が買った野菜や果物以外にケーキや土産物のようなものも売っていた。臨時の売店のようなものである。沿線の地元の人にとって、少しは生活の足しになっているのだろう。ちなみに述べるならば、ロシアでは出発も到着も何の案内もない。日本の駅ではうるさいくらいベルがなったり、音楽メロディーがなったりして、案内アナウンスも聞こえるが、ここシベリアでは乗客は時間を確認して自分の車両に戻る。気を付けないと置いて行かれてしまう。静かに「ゴトン~ゴトン」とゆっくり動き始める。

 

ベラゴルスク駅3

車列は大変長い。多分20両ぐらい連結していたと思う。乗客もほどほど多い。左に写っている車両はレストラン車両である。

 

笑顔の車掌

デッキで業務中の車掌が、ロシア人女性にしては自然な笑顔を見せたのでパチリ。

 

シベリア鉄道沿線の駅とバイカル湖

シベリアの駅舎

アマザール、モゴチャ付近の車窓風景のひとつ。駅付近の集合住宅が見える。

 

シベリアの草原と森林

モゴチャ付近で初めて牛の放牧をみた。

 

駅ホームでの食料販売風景

 

プラットホーム無しの駅

ほどほど大きい駅でもこのようにホームが無い所がある。冬なんか大変だろうなと思う。デッキと地面まではかなりの高さがある。年寄りなんか一人で降りることが困難と思う。こういう時や重い荷物の上げ下げなどは、ロシア人は全く他人でも自然に元気な者が助けるという美風がある。ついでに言うと、バスの中でも若者は必ず年配者に席を譲っていた。

 

駅ホームでの柵越え物資販売風景

のんびりしたもので列車時刻に合わせて、地元の人がこういう風に柵の外からでも物資を販売しにやってくる。

 

デカブリストのレリーフ像

ウラン・ウデの手前のペトロフスキー・ザ・バイカリスキー駅である。駅のホームにデカブリストのレリーフ像が設置されていた。今でもシベリアは寒くて大変なのに当時は、こんなところに流刑されるとさすがに困っただろうなと推測した。それでも牢屋に入れられていたわけではないし、八丈島のように海の中の孤島ではないので、この地を脱出して再び活動するという「革命的伝統と不屈さ」がロシアにはあったようである。

 

列車の行き先表示板

[ノボシビルスク―ウラジオストック]と書いてある。この列車はイルクーツクより更に西方のノボシビルスクまで行く。

 

バイカル湖の風景

この旅の終点であるイルクーツクに近づいてきたらバイカル湖が見えてきた。荒涼とした風景である。世界で一番透明度が良いと言われている。そう言えば、車中で中年男性の車掌長と雑談した時、弥左衛門が日本人であると知って、「きれいなバイカル湖を日本人が汚した」と言った。

そんなことは聞いたことがなかったので、その場は「それは悪い日本人だな」と答えておいた。このことがずっと今でも頭に引っかかっている。日本国内の公害史などは多少なりとも、勉強していたが、ロシア国内の公害問題は全く知識が無かった。この旅の後、外国の公害問題も含めて少し勉強した。

そしたら公害問題に精力的に取組んだ都留重人氏の著作のひとつ「公害の政治経済学」(岩波書店、1972年刊)に「ソ連の公害例―バイカル湖の汚染」の一節があった。しかし、これを読んだ限り日本企業の関与は全く見いだされない。更にインターネットで最新のバイカル湖汚染問題を検索したところ、やはり問題は深刻化しているようであるが、その原因はロシアの製紙工場と観光開発にあるようだ。

最終目的地イルクーツク

ロシアのファッションとタトゥー文化

女性通訳

イルクーツク駅で出迎えてくれた女性通訳である。数時間だけ市内を案内してくれた。

しかし、あまり日本語が上手くなく、「どこの会社で働いているの?」「会社・事務所に従業員は何人いるの?」と聞いても要領が得なかった。しかし、憶えているガイド用の説明はしてくれた。例えば、「この建物は日本人抑留者が建てました」などである。

この女性のジーンズ・ファッションは、この当時ロシアで流行していたものである。ソ連崩壊後、マックなど欧米の文化・習慣が流入した。ジーンズ・ファッションもそのひとつである。この広場でもそうであったが、このような「ヘソ出しルック」の若い女性が街にあふれていた。

また後年、ウラジオに語学留学した時にはこのようなジーンズをはいて、タトゥーを施したお尻をみせて歩いている女性もみた。タトゥーはロシアでも流行っていた。

ロシア人が何故こんなにタトゥ―が好きなのか、弥左衛門はずっと疑問に思っていた。何故なら日本でもロシアでも入れ墨は囚人の入れるものと理解していたからである。終戦時に満洲に攻め込んできたソ連兵には多くの「入れ墨兵」がいたという話を戦争体験談などで読んでいたからである。

要はロシア人のタトゥーに対する美意識と歴史感覚がまったく理解できなかった。今回、たまたま戦争遺産巡りの記事が掲載されていたので買った雑誌が数日前に届いた。その中に、たまたまロシアでのタトゥーのことが掲載されていたので紹介する(「ダークツーリズム・ジャパン 産業遺跡の光と影」、東邦出版、2016年1月4日)。タトゥ―のことが歴史的背景も含めて書いてあったので大いに参考になった。

ロシア・タトゥ―の雑誌記事1

ロシア・タトゥ―の雑誌記事2

 

イルクーツク市内の風景

バイカル湖畔の公園風景

気候も良かったので、多くのロシア人が散策していた。

イルクーツクの中央市場

この中に多くの個人店舗が並んでいる。食料品など日用品が売られている。軽食堂もある。旧ソ連圏はどこも同じつくりである。

中央市場前の賑わい

トロリーバス

日本にない乗り物はこのトロリーバスであろう。

 

メイン通りの賑わい

ここの通りでは、以前からロシアに行ったら飲みたいと思っていた「クワス」というドリンクを体験した。

いろんなロシア関係の文章の中でこの飲み物の話が出てくるからである。アメリカでいうとコーラのような飲み物と聞いていた。サッパリした味で、なかなかいけた。しかし、この後もロシアへ行った時は、クワスを見つけたら飲もうと思ったが見つけることができなかった。

このような伝統的な飲料はマックなどの欧米からの飲食物に押されていったようである。

 

メイン通りの車の渋滞

車は圧倒的に日本の中古車が多い。その中でも一番人気は、四輪駆動のRV車である。ロシアは道路事情が非常に悪いからである。これより、5年前にノボシビルスクを訪問した時、女子学生は「パパはトヨタのターセルを買った」と自慢していた。

ここ、イルクーツクぐらい迄は伏木で日本の中古車を買って、シベリアの道路を自分で運転して車をお客さんに届けたり、自分が利用したりする。船中で知り合ったロシア人はイルクーツクの少し南の方の出身者であったし、名古屋で勉強していたブリヤート人の学生は日本の中古車を買ってウラジオに上陸し、ウラン・ウデまで自分で運転して帰ったという。

しかし、この学生の話ではウラジオに上陸するとロシア・マフィアがホテルにやって来て手数料を要求したという。まったく奇妙な国である。この日本車人気はモスクワに行くと全く異なる。途端にヨーロッパ車が多くなる。金持ちが多いのと西欧に近いからだろう。しかし、モスクワでもロシア車はまったくない。ロシアの伝統的な車メーカーは完全に国際競争力を失っている。

 

街の中の銅像

レーニン像

ここでもレーニン像は健在であった。

 

ガガーリン像

「地球は青かった」という言葉で有名な人類初の有人宇宙飛行士ガガーリン(1934~1968)の像である。大変な騒ぎだったことは弥左衛門も記憶している。

ガガーリンはモスクワ西方の町で生まれているので、ここイルクーツクとは特段の関係はなさそうである。それでも大英雄だったので、多分このような像が旧ソ連全土に建てられたのであろう。しかし、ガガーリンはその名声にふさわしい幸福な人生ではなかったようである。

街のイベント

公園で買った絵

弥左衛門は海外に行った時に必ず絵を買うことにしている。暇があればその絵を描いた画家や販売している人と雑談する。この絵は公園で売られていたので買った絵である。バイカル湖を描いている。

この絵を描いた人ではなかったが、東京に住んでいたという画家と出会った。弥左衛門を日本人と知って話しかけてきた。「金がなかったので、毎日安いウドンばかり食べて過ごした」と懐かしそうに語っていた。どこの国でも金にもならない画家という商売をやっている人は、いやらしい欲が無いので雑談していても楽しい。

 

生徒の運動会

突然、このような女子生徒の集団が公園近くの通りを全力で走る光景を目にした。天気が良いのでシベリア地区では今の時期に屋外でこういうイベントをやるようである。沿道には多くの先生とおぼしき人と父兄がいた。

宿泊したホテル「ヨーロッバ」

宿泊したホテル「ヨーロッパ」

名前は看板に書いてあるように「ヨーロッパ」という名前である。

 

正面玄関前

正面玄関の外観は少し派手過ぎて好みではない。だが、そんなささいなことを問題にしてもここシベリアに来た今となってはしょうがない。これも異国を旅する「楽しみ」のひとつと納得させた。

しかし、さすがにバスタブにお湯をいれると、真っ赤な水が出てきたのにはびっくりした。このホテルは日本円でも結構な値段の宿泊費を取っている。ロシアのホテルについては、ある訪問記でバスタブの栓がなかったといった話は読んだことがあった。ロシア人だけでなく欧米人はシャワーだけで十分な人が多いから、バスタブは使わなくても苦にならないのだろう。しかし、真っ赤な水が出るという話は聞いたことが無かった。これもロシアでは驚くことでは無いようである。弥左衛門が後にウラジオへ10カ月間ロシア語の語学留学した時も、寮の部屋の水道水から真っ赤な水が出てきた。要は水道管が古くて錆びついているのである。そして、洩れると修理するのであるが、当面の間は赤い水が続くことになる。ロシアの生活インフラは貧困である。

旅を終えて

以上でシベリア鉄道横断旅の話を終える。この後は、前述のように飛行機で再びウラジオに戻り関西空港経由で帰宅した。

今後の弥左衛門の海外旅行の希望としては、コロナもおさまったので、①に韓国再訪、②に中国の北京と上海、③にこれは今の国際情勢から判断すると半分以上夢かも知れないが、朝鮮半島を鉄道で横断して、更に鉄道で旧満州へ行き、モンゴル自治区、ハルピンを訪れたいと思っている。そしてロシアへ入国し、シベリア鉄道経由で帰国する旅行である。一番の問題は今後の朝鮮半島情勢である。その前にウクライナ情勢もある。

(2023年11月22日 記)

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