はじめに
これは弥左衛門が世界のあちこちを一人で旅した時の旅行記である。特に多くの国を訪れたわけではないが、気ままにその時の興味にまかせて出かけた。特に弥左衛門の関心はその国の言語と歴史、国民性である。だから博物館や美術館を見つければ、必ずそこを訪問し、可能ならそこの学芸員と雑談した。
台湾
台湾でどうしても見たかったところは、故宮博物館と台湾新幹線である。
故宮博物館では、有名な石でできた白菜彫刻を見ること、そして台湾新幹線に関しては日本の新幹線と乗り心地を比較することであった。
台湾の故宮博物館の展示品は、元々北京にあったものの一部を、蒋介石が毛沢東との内戦に敗れて台湾に逃れてきた時に運んで来たものである。中国人は骨董品を盗むとか、歴史遺跡を盗掘してそれを売却する悪い癖がある。日本人はまたそれを買ったり、商売にしたりする悪い癖がある。
当時の蒋介石軍は幹部から末端の一兵卒まで、支援していた米国に見捨てられるくらい腐敗していたが、この故宮博物館の品々は北京から台北まで行方不明にならず無事であったということである。そこまで蒋介石も腐っていなかったということか。
しかし、改めてこの台湾旅行の時の写真を見ると、残念ながら台湾新幹線も故宮博物館も写真に残っていなかった。ただ記憶は、はっきりしていて新幹線は少し揺れが大きく安定性に欠けていて、つくりがチャチな感じがした。車にたとえると日本の新幹線がベンツで、台湾新幹線はトヨタのクラウンという感じであった。レール幅がどうなのか、車体や駆動部分が全く同じなのかなど技術仕様の詳細は知らないが剛性、馬力、安定性が足りない感じがした。
故宮博物館の「白菜彫刻」についてはまったくテレビなどで見ていたものと同じで、見事な自然美と手わざの融合であった。
飛行機で空港に降り立ってから、列車でホテルのある台北に向かった。これは台北駅前である。
あまりゴチャゴチャしておらず、きれいですっきりしていた。この駅から地下鉄に乗ってホテルに向かった。改札口がわからないので、若い駅員に聞いたらすぐ教えてくれた。そしたら
「日本からですか?私はもうすぐ日本に旅行に行きます。」
と英語で嬉しそうに話してくれた。
台北駅構内の様子である。人でごった返していることはなく、適度ににぎやかで、且つきれいである。ここの自販機で切符を買って台湾新幹線に乗ってみた。小一時間の試乗を楽しみ、降りた駅の周辺をぶらついて、また台北に戻って来た。
駅前広場にあった市場の風景である。ここで果物とお菓子を買って、ホテルで食べた。
手を挙げているのは、おやつを買った店のおばちゃんである。この時は二回目の訪問だったので、おばちゃんと少し遠いところで目があったので、「ママー」と叫んでカメラを向けたら、手を振ってくれたのでパチリとやった。
繁華街の通りである。すっきりしていてきれいな街並みである。
これも街の風景である。正面のビルは日本の三越デパートの台湾店だと思われる。
街の中にある大きな公園である。よく整備され、掃除も行き届いている。また現地の人もごみをポイポイ捨てるようなことはしない。
これは蒋介石の廟である。とにかく広くて立派である。筆者はモスクワの「赤の広場」にあるレーニン廟も訪問したが、まったく比較にならない。「赤の広場」自身がこんなに広くない。
この蒋介石廟は中国歴代皇帝の墓を模してつくったものであろう。とても「民衆の指導者」の墓とは思えない。中国本土でも天安門広場付近に毛沢東記念館があり、レーニンと同じように防腐剤処理した毛沢東の遺体が安置されている。
中国人は今でも立派な墓をつくる事が人生最大の事業のようで、現中国最高指導者の習近平の父親、習(しゅう)仲(ちゅう)勲(くん)の墓はとてつもなく大きいという。これは地元共産党幹部が現国家主席に「忖度(そんたく)」して建設したものという。習仲勲は戦前からの革命家で、毛沢東に文化大革命で失脚させられたが、その後名誉回復している。
しかし、今でも自分の父親の大きな墓を地元に立てさせるとは、新中国建国後既に70年以上経過しているが、中国人の本質は何も変わっていないということか。
この建物の中に蒋介石の座像がある。
これが蒋介石の座像である。残念ながら暗くて良くわからないが椅子に座っているのである。
椅子に座っているところしか像がつくれなかったということは「伝説的」シーンがないからであろうか。偉大な人物の像はたいてい立っていて、何か象徴的なポーズをとっている。
立っていない像といえば、タイなどでよく見られる釈迦(しゃか)涅槃(ねはん)像だけではないだろうか。釈迦の場合は横になって寝ていること自身が伝説であり、「決めポーズ」である。
余分なことだが、弥左衛門が印象に残っている歴史的像の「決めポーズ」を記す。子供の頃、地元の公園にあった戦前に建てられた「金の鳶(とび)を持った神武天皇」像、これも今は無くなったが戦前の小学校にはよくあった「薪(まき)を担いで歩きながら本を読む二宮尊徳」の石像、ウラジオストックで見た「東方を指さすレーニン」像、モスクワ「赤の広場」付近にあるマルクスの銅像は大きな「胸像」だった。
ヨーロッパの偉人像はこのタイプの胸像が多い。そういえば北朝鮮の金日成(きむいるそん)像は実際に見たことが無いので具体的なポーズが思い浮かばない。やはりどこかを指さしていたような気もするし、白馬に乗っていたような気もする。
廟の入口門である。衛兵が左右に立っている。
一番右の職員はお付きの「見守り人」である。どこの国でも衛兵は格好が良いので観光客には人気がある。英国の衛兵交代などはテレビなどで何回も見たが、伝統的に確立された立派な様式美をそなえたセレモニーである。
これら衛兵は、どんなことがあっても勤務中は表情を変えてはいけないし、身体も微動もしてはいけないのが「国際的規範」である。ただ無表情で直立不動で立っているだけなので楽な軍隊勤務だと思われがちだが、弥左衛門もタイかどこかで、衛兵の横に立って、表情を変えずに直立不動の姿勢を5分ぐらい続けてみたが、とてもじゃないがこれ以上やっておられない。
ましてや体調が悪いと無様なことになってしまう。特に腹の調子が悪い時などは笑い事ではおさまらないと想像した。だから若くて、忍耐強く、真面目で身長が高い優秀な新兵が選ばれるという。この時、やはり衛兵の傍にお付きの「見守り人」の人がいたので、「汗が目の中に入ったらどうするのか?」「何時間毎に交代するのか?」などを質問した。
その答えは「汗は私がふいてやる。また勤務中の服装の乱れなども、自分が直してやる。勤務は一時間交代である」ということであった。タイ、台湾は暑い、ロシアは寒い、韓国も寒いだろうなと思うと同情に値する。
よく戦争中、満州での軍隊経験で、零下30度ぐらいになる真冬の深夜に歩哨に立つと手が凍るように冷たくなり、銃の引き金が引けなくなるということを読んだことがある。映画でもそんなシーンを見たことがある。歩哨の場合は、少しはブラブラ歩いて身体を暖めることが出来るけど、ロシアの「赤の広場」で真冬の深夜に衛兵をやれといわれたら弥左衛門なら10分で脱走するなと想像した。
弥左衛門は零下20度のウラジオストックの街を深夜ぶらぶらした経験があるが、日本で売っている普通の厚手の帽子、手袋、防寒靴は全く役に立たないことを経験済みである。特に手足の先の感覚がなくなる。また携帯電話やカメラの電池などは全く作動しなくなるから要注意である。
ポケットにカイロを入れておいて、そこに手とカメラを入れておくと良い。これもまったく余談になるが、ロシア人へのお土産にはホカホカ・カイロが良い。弥左衛門はロシア人男性にウラジオストックで、「もむと熱くなる物を持ってきていないか?」と聞かれた。冬、凍った湖上で穴をあけて釣りを楽しむ時などに良いらしい。
衛兵の交代のセレモニーである。右の背広服の人が「見守り人」である。
衛兵交代は観光客に大変な人気である。
名前は忘れたが団体旅行で昼に訪問した有名な寺である。
台湾の寺も含めて、中国人の建てた寺はどうも好きになれない。建物の色がギラギラしすぎている。また中で行われている礼拝法も線香を焚くのは良いけど、印刷したおもちゃの札束をその場で買って、それを燃やしてご先祖様の供養にするのもしっくりいかない。
このような気持ちは弥左衛門が横浜中華街のお寺、ボルネオで華僑が建てた寺を訪問した時にも感じたものである。「大乗仏教」「小乗仏教」の違いなどその詳細は知らないが、要は中国人の「拝金主義」、「現実主義」「大陸的発想」が強く出過ぎているのである。
朝鮮半島ではどうか知らないが、仏教はインドから中国を経由して、朝鮮半島経由で日本に伝わった時から、地域ごとに大きく変容したようである。まあこれは当然といえる。先日NHKテレビを見ていたら、鑑真が日本に渡ってきた頃には、中国本土では既に仏教は下火で、かわりに道教が勢いを得ていたという。
これは夜のお寺の風景である。多くの人が訪れている。寺の名前は龍山寺という。
この寺の回りにはいろいろな夜店もあって面白かった記憶がある。蛇など爬虫類を売る店もあった。
内部に明かりをこうこうとついており、外も明るい。お供え物も多い。日本だと夜の繁華街かと思うぐらいである。日本の繁華街にあるお寺の雰囲気とも全く違う。ましてや山中にある比叡山や永平寺の夜の風景とは全く違う。
夜の商店街の風景である。何でも売っているのでブラブラするのには楽しい。
牛丼の「吉野家」の看板が見える。
(2020年8月9日記)
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