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【越中屋弥左衛門の地球見聞録】 第1回:韓国-板門店と刑務所歴史館-(2009年4月28日~5月1日)

越中屋弥左衛門の地球見聞録(ぼっち旅)

はじめに

これは弥左衛門が世界のあちこちを一人で旅した時の旅行記である。特に多くの国を訪れたわけではないが、気ままにその時の興味にまかせて出かけた。特に弥左衛門の関心はその国の言語と歴史、国民性である。だから博物館や美術館を見つければ、必ずそこを訪問し、可能ならそこの学芸員と雑談した。

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板門店

第一回目は、越中屋弥左衛門が子供の頃は、一番近くて遠い国と言われていた韓国である。今はそんなことはなくなって、大変結構なことである。この頃は日本の主要な駅や、ちょっとした観光地に行けば英語や中国語と共に必ずハングルでの説明もある。それだけ韓国からの訪問客が多くなってきた証拠である。弥左衛門がこの韓国旅行で是非とも行きたかった場所は、三十八度線の板門店と日本の植民地であった頃のことを展示する博物館である。板門店訪問に関しては見学可能かどうか、あらかじめ日本で旅行の手配を依頼したHISに聞いてから出発した。ソウルに到着してから、現地の退役軍人会などが運営している板門店見学専門の旅行社に申し込んだ。この時は日本人観光客も多かった。この日は日本人グループ(約20人)とそれ以外のグループに分かれての見学となった。

 

繁華街の通りの風景である。この写真だけ見ると日本のどこかの街かと思ってしまう。ハングルが全くないことと、服装が日本とまったく同じだからである。

弥左衛門が訪問する少し前までは、韓国では毎日正午頃に、警戒警報のサイレンが鳴って、街頭を歩いていても停止して警戒態勢に入らなければならないと聞いていた。しかし、もうそんなことはしていなかった。南北の緊張は少しやわらいできていたのかもしれない。

 

昔の門である。正確な名称は忘れてしまった。しかし、見事なつくりである。要塞も兼ねていたのであろう。

 

革ジャンを買った近くの川である。水も汚れておらず、市民の散策路となっている。ソウル滞在中ここを数回歩いた。日本と同じで韓国人はきれい好きである。

 

仁川(インチョン)空港である。東アジアのハブ空港のひとつと呼ばれるだけあって、いろんな設備が整っていた。弥左衛門はこの空港をロシア極東からの帰りなどでも数回利用したが、大変便利な空港である。受付の女性は胸に応対できる言語を表示した札をつけているのでありがたかった。そうでなくとも、ここで働いている女性は簡単な日本語なら話せた。

 

弥左衛門はこの時、ハングルがまったく読めなかった。実は学生時代に見た金大中拉致事件を報道する韓国の新聞が漢字だらけだったので、当然少しは街に漢字があるだろうと思って、安心して出かけたのである。ところが、この旅行時には街の看板はハングルだけになっていて読むことができず、おおいに不便を感じた。街頭で中年男性に漢字で「革製品の店はこの近くにないか」と「革」「皮」の文字を書いて質問したが理解してもらえなかった。そして、屋台で何かうまそうなものがあれば、いつも少し買って食べた。

 

英語の使用頻度も日本と同じくらいかも知れない。

 

板門店訪問時にもらったパンフである。このパンフをもらうだけでなく、「敵の行動によって危害を受けたり、死亡する可能性がありますが同意しますね」と書かれた「見学者宣言書」に署名しなければならない。まさに「命がけ」の観光旅行である。

 

38度線上の南北会談場所である。我々日本人観光客は北朝鮮代表団側に並んでいる。ちなみに微動ともせず左に立っている兵士は人形ではなく、韓国軍兵士である。どこの国でも、観光的建物の衛兵は格好の良い若い優秀な兵士が選抜されるという。寒いロシアの「赤の広場」のレーニン廟に立つ衛兵に同情した記憶がある。

 

こういう風に一人づつ、横に並んで写真を撮ることにも応じてくれる。

バスの中から撮影した北朝鮮側の建物である。「手をふったり、相手を刺激する行動は絶対しないで下さい」と強く念を押された。

 

板門店の公園内にある記念碑である。朝鮮戦争で戦った兵士を讃える像が建っている。

 

北に通じる道路の境に掲げられている南北統一を願う旗や布である。終戦間際のソ連と米国の取引で、生活とは関係な地理上の線で分断された民族の悲劇と再統一の強い願いを感じる。

 

緩衝地帯の田んぼ風景である。ここは韓国人が耕していると説明を受けた記憶がある。この旅行に出発する前から、長い38度線をどうやって往来できないように管理しているのか疑問があった。

 

バスの中から南北境界線上の建物を撮影した。向こう側は北朝鮮の建物である。トランプ大統領と金正恩が一緒に手を取って握手した境界線はこのすぐ下である。

 

北朝鮮側の風景である。以前に北朝鮮の兵士が脱北しようとして、板門店で倒れた時の映像をテレビでみていたら、こんなところを車で走って来て、途中で降りて南北境界線上で倒れたと説明していた。

刑務所歴史館

 

この刑務所は、現在はまったく使われておらず歴史館となっている。主に韓国の学生向けの歴史教育に使われているようであった。少し前にテレビを見ていたら文在(ムンジェ)寅(イン)大統領が8.15.の解放記念日か何かの日に、ここを訪問していた。日本人も多いのか、このような日本語パンフも用意されていた。しかし、弥左衛門が訪問した時は、韓国人も含めて誰もおらず自分一人であった。

 

煉瓦づくりのしっかりした建物である。弥左衛門は網走刑務所を訪問したことはないが、なにかそんなイメージである。

 

正面入り口である。内部は撮影禁止だったか記憶は定かではないが、今は手元に内部を写した写真がない。しかし記憶ははっきりしている。一言でいうと、戦前の特高警察が日本国内で治安維持法違反の日本人にしていたことを、ここ朝鮮半島でもしていたということである。小林多喜二や宮本顕治がやられた拷問シーンが実物大の人形で再現されていた。とてもリアルである。そして、独立運動に参加した若い英雄的女子学生を讃える説明看板があった。

(記2020年5月26日)

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