はじめに
これは弥左衛門が世界のあちこちを一人で旅した時の旅行記である。特に多くの国を訪れたわけではないが、気ままにその時の興味にまかせて出かけた。特に弥左衛門の関心はその国の言語と歴史、国民性である。だから博物館や美術館を見つければ、必ずそこを訪問し、可能ならそこの学芸員と雑談した。
モスクワとノボシビルスク
今回は会社の永年勤続制度を利用して行った一ヶ月モスクワ語学留学とシベリアの研究学園都市ノボシビルスク訪問について書きます。
シベリア訪問もあるので季節は5月の長期連休中にした。弥左衛門が勤めていた会社は金と長期休暇がもらえる永年勤続制度があり、今回はこの制度を有難く利用させて頂いて、初の本格的海外滞在旅行を行うことにした。
これは長年、温めてきた夢であった。会社からは25年永年勤続者は、2週間から1ヶ月間くらい休暇がもらえたように記憶している。更に有給休暇も余っているし、ゴールデン・ウィーク期間中なので、それも使えば結構時間はある。更に数十万円の報奨金ももらえる。一般の人は夫婦で団体旅行に参加する人が多かったように記憶している。
家でゴロゴロ過ごすという人もいて人それぞれである。一般的には
「更なる飛躍に向けて自己研鑽しなさい」
というありがたい会社の励ましの意味もあるそうなので、弥左衛門は名古屋の語学教室で勉強していたロシア語を更にブラッシュ・アップすることと、ソ連崩壊後のロシアを実見することを目的とした。
そして、たまたま弥左衛門が名古屋でロシア語を習っていた語学教室の先生がシベリアのノボシビルスク出身で、この時は実家に帰省していた。そして現地の大学で日本語を教えているから、興味があったらノボシビルスクの日本語教室を見学したらどうかという提案があった。
このノボシビルスク訪問の詳細はモスクワに到着してから決めることにしてまずモスクワへ旅立った。運よく先生の都合とマッチしたので滞在中の途中5日間ぐらいノボシビルスクも訪問し、学生たちと交流することもできた。以下写真で紹介する。
モスクワ滞在
[滞在した寮の建物]
1980年のモスクワ・オリンピックのために建てられ、その後アパートになったらしい。旧ソ連からの出稼ぎの人なども含め、いろんな人が住んでいた。
[日本人留学生用の部屋]
ドアを開けるとシングルルームが二部屋ある構造になっている。トイレや台所、シャワーは二人で共用である。ここで神奈川大学から来ていた日本人留学生と一緒に過ごした。彼はもう何カ月も前からモスクワで勉強していた。
[部屋の窓からみた風景]
ロシアはどこもそうであるが、すべてが古くてさびれている。ここのクレーンは動いていなかった。ソ連が崩壊した理由が分かる。
[留学した大学の正面玄関]
一ヶ月間ロシア語の個人レッスンを受けたモスクワ自動車道路大学である。ここを選んだ理由は、自分が自動車部品会社に勤めており自動車工場を見学したかったからである。
[赤の広場入口]
正面の赤い建物の向こうが「赤の広場」である。
[同じく赤の広場入口]
旗がたっている右下の階段を降りると、半地下になっていて次の写真のようなフード・コート街になっていた。最近テレビをみていたら、たまたまこの付近の風景が瞬間写った。20年経って大分モダンになっていた。
[フード・コート街]
いろいろメニューを眺めることができるので便利である。「赤の広場」付近に来た時はここで食事をした。
[赤の広場]
[レーニン廟]
1989年のソ連崩壊直後は、あちこちでレーニン像が引き倒されたとかというようなはでなニュースをたまに見た。ここ赤の広場のレーニン廟はどうなっているか確認に来た。ソ連時代と同じようにレーニンの遺体は衛兵に守られていた。
[レーニン廟]
[レーニン廟の衛兵]
弥左衛門はどこの国へいっても、衛兵を見るといつも同情してしまう。どんな季節も微動だにせず直立不動で立っていなければならない。この時は5月で天気も良かったので何ら問題ないが、極寒の冬のロシアはマイナス30℃位になることがあるので大変である。そこでこの写真をよく見ると、衛兵の後ろに透明な電話ボックスのような囲いがある。吹雪の時はこの中で立っているのであろう。
[マルクス像]
赤の広場の近くにあるマルクスの大きな石像である。ロシア語の先生が授業の一環としてモスクワ中心地を案内してくれた時に見た。「万国の労働者、団結せよ!」という有名な言葉が刻まれている。
[町の中心部]
モスクワでは日本車の比率はあまり多くなく、欧州車が多い。ウラジオストックでは100%日本車、ノボシビルスクでも結構日本車が多かった。
[古い世界地図の装飾プレート]
赤の広場の横にあるグム(国営百貨店)で買ったものである。1643年当時のヨーロッパ人が認識していた世界地図が描かれている。日本は東の隅っこに団子のような島国として描かれている。シーボルトが伊能忠敬の日本地図を見て国禁を犯してまで国へ持ち返った理由がわかる。
[街で見つけたスズキの宣伝看板]
[絵の即売市]
モスクワの観光ガイドにも書いてある有名なモスクワ画家協会主催の絵の即売市である。定期的に年中開かれている。ロシア人はどんなに生活が苦しくても、芸術・文化を大切にする優れた伝統を持っている。
[弥左衛門が即売市で買った風景画]
ロシアを出国する時、税関で没収されることもあると聞いていたので、しっかり証明書を発行してもらった。今、家の玄関に飾ってある。
モスクワでのロシア語授業
大学でのロシア語授業について述べる。日本人は金持ちと思われていて、個人授業である。
弥左衛門の隣室の学生も個人授業を受けていた。弥左衛門の担当は
「私はドクターだ、ドクターだ」
と口うるさく自慢する年配の女性教師であった。モスクワ大学出身と言っていた。他の国からの学生は30~40人位の大きなクラスで授業を受けていた。
学生の出身国は案外中近東が多かったので意外であった。イラン、イラク、パキスタン、エジプトなどからである。もちろん中国、ベトナムからも多い。
隣室の友人と街で白タクを拾って出かけた時に運転手に、
「あなたたちはベトナム人か?」
と聞かれた。中近東からの学生に、お互い何語で会話しているのかと聞くとアラビア語だと答えた。
白タク合法
日本では勝手にタクシー業務をすることは禁止されているが、ロシアでは普通の自家用車ドライバーが路上や空港で人を拾って、乗せて金をとっても良いことになっている。
そのかわり乗客は、
「どこどこまでいくらで行ってくれるか」
などと交渉しなければならない。隣室の友人が
「地下鉄は危険だ」
というので、いつも一緒に出掛ける時はこの白タクを利用した。
つかまえ方は日本と違って、路肩で腕を水平に広げるのである。そうすると止まってくれる。弥左衛門はモスクワ以外でもしばしばこの白タクを利用した。たいていは空港からホテルまでである。
黄色人種狩り
ちょうど留学した時はソ連崩壊からあまり年月が経っていなかったので、ロシアでは治安が悪く、黄色人種が路上で襲われるという事件が発生していた。
ちょうど弥左衛門が留学していた時も、大学の留学生が襲われるという事件が発生したので、先生に付き添われ徒歩で集団下校するということがあった。そして数日間、徒歩は危険だというのでバス通学になった。
このようなこと以外に、登校一日目に大学近くの路上でチンピラ警察集団に職務質問される事件があった。隣室の友人と一緒に道路を歩いていると、手に持った警棒をグルグルまわして巡回している5~6人の警官集団に遭遇した。
弥左衛門にたいして、
「パスポートを見せろ」
という。
それがまた運悪く、前日に手続きの関係で必要だというのでパスポートは主任教官に預けていた。
「昨日モスクワに着いたところだ。パスポートは大学の○○教官に預けてある」
と説明すると、それ以上追及せずに立ち去った。
警官や税関の職員、郵便局員などが、なにかとイチャモンをつけて銭を巻き上げたり、物品を取り上げることがあると出発前から噂を聞いていた。日本に住んでいるロシア人からも郵便物が正常に届かない、あるいは破られていたということも聞いていた。
弥左衛門はウラジオストックから富山空港に戻る時に空港の税関で持っていた絵についてしつっこく質問されたことがある。その絵は路上で販売していたものであった。
「それは貴重な文化財ではないか」
「証明書類は持っているか」
などの質問を疑い深い眼の係官から受けた。
自動車修理工場見学
モスクワ到着前から
「ロシアの自動車工場を見学したい」
と伝えてあったので、主任教官がその工場へ連れて行ってくれた。
大学で
「社長はこの大学の卒業生だ」
と聞いていた。
本当は自動車生産工場を見たかったのであるが、着いてみると、そこはモスクワ市内にある自動車修理工場であった。少し、がっかりしたがそれでも勉強になると思って見て回った。修理工場としては結構大きく塗装から部品交換まで何でもやっていた。
車検もやっているらしかった。社長室に招き入れられ、そこでいろいろ雑談した。なにより驚いたのはまずウォッカで乾杯したことである。午前中の昼飯前である。
そして社長が日本を訪問した時、日産の東京近郊の工場を訪問した時の写真を見せてもらった。工場の食堂で昼飯を食べてから、社長と工場長に案内されて工場全体を見て回った。
どうでも良いことであるが、今でも覚えていることを記す。工場見学中、途中で工場長がコーヒにレモンを入れて飲んでいる。思わず「コーヒにレモンを入れて飲むんですか!」と聞いてしまった。
もちろん日本の整備工場のようにキレイではないが、整理整頓はなされていた。工場長と巡回中も若い従業員が何か書類に緊急の許可のサインが欲しいのか、申し訳なさそうに書類を差し出していた。
従業員は真面目に働いていた。ところどころ工程で疑問になった時はそこの担当従業員に質問した。丁寧に答えてくれた。工場見学が終わって外に出ると年配の従業員が10~20メートル位少し離れたところから、
「見学した印象はどうか?」
と大きな声で聞いてきた。
「まあまあだね。従業員は真面目だね」
と、こちらも少し大きな声で挨拶しておいた。
ノボシビルスク訪問
[ノボシビルスクの街並]
ノボシビルスクはシベリア内陸部にあるので5月になると結構暖かい。そのかわり冬は寒い。いわゆる大陸性気候である。ノボシビルスクはシベリアの学園都市として有名で、ロシア科学アカデミー・シベリア支部の本部がある。日本の筑波学園都市もここを参考にしたと聞いている。
[中央広場]
[ホテルの部屋からみた風景]
ホテルも含めて建物は大きいが、どれも古くてリフォームが行き届いていない。多分金がないのだろう。
[公園 or 空き地?]
これも金が無いので整備されていなのか、公園のようでもある。
[街を案内してくれた女子学生]
大学で日本語の授業を見学した後、15人位の生徒たちと街でマックのようなファースト・フード店で雑談した。この二人の女子学生は翌日も弥左衛門のような「日本人からのおっさん」をノボシビルスク大学と日本文化センターへ連れて行ってくれた。
[オビ川]
ノボシビルスクにはオビ川が流れている。地図をみると湖もあるのでこれは湖か川か不明である。いずれにしても大学のすぐ近くにあった。
[ノボシビルスク日本文化センター]
畳の間があった。建物も結構大きくて、いろんな日本の文化にふれることができるようになっている。ノボシビルスクは札幌と姉妹都市である。
[お雛様飾り&琴 ]
[兜飾り]
[日本語スピーチ・コンテスト開会前]
この写真を撮った後、スピーチ・コンテストが始まった。参加資格は高校生までとのことであった。現地に滞在している日本人が審査員をしていた。弥左衛門はこの椅子の後ろの方で聞いていた。皆、緊張しながら覚えた文章を一生懸命発表していた。弥左衛門はウラジオストック滞在中も富山県主催の大学生向け日本語スピーチ・コンテストを聞いた。この時の優勝者への褒美は富山県への留学であった。ロシア人はこういう発表などになると大変真面目で一生懸命取り組む。
町を案内してくれた学生たちに感謝
このノボシビルスク訪問で印象に残っているのは、日本語教室の学生たちが弥左衛門をいろんなところに案内してくれたことである。
またロシア語教師だった先生が中央広場にある大きな劇場で開かれたバレー公演に招待してくれた。バレーの演目が、日本で見たことがある「くるみ割り人形」だった。「くるみ割り人形」はロシアでも大変人気のある演目である。
特に登場人物が多いので研修生の卒業公演に適しているようである。ノボシビルスクにバレー留学している日本人女性も出演していた。街を案内してくれた女子学生の一人は「おばあちゃんが作ったケーキです」と言って直径20センチぐらいの大きなケーキをプレゼントしてくれた。
いくら甘いもの好きの弥左衛門でもノボシビルスク滞在期間中だけでは食べきれなくて、モスクワまで飛行機で持って帰った。特に世話になった五人位の生徒達には、日本に帰ってから日本語を習っているロシア人学生が気に入りそうな物を郵送した。
日本語教師の先生から無事届いたというメールがあった。もうこのノボシビルスク訪問時から20年位経っているが、彼らが今でも日本と日本語に少しでも関心を持って元気で暮らしていることを願っている。
(2021年2月1日記)
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