表紙写真説明:衛生兵として従軍していた父親が戦地から持ち帰ったカバンである。納屋の奥に長く眠っていたのを今回、中を開けて見ると消毒液の瓶とガーゼの切れ端が出てきた。カバンの背景となっている布は今回の旅行中にボルネオの土産物店で買ったものである。
はじめに
2012年2月10日から2月16日まで1週間、父親が戦争に行っていた北ボルネオを訪問した。この地は50歳ぐらいから絶対訪問したいと思うようになった所である。何故なら、それまでロシア、パリ、タイ、台湾、韓国など自分の好みに合わせて観光旅行ばかりしていたので、戦後生まれの僕としては、父親が苦労してやっとのことで帰国したのに、その戦地を訪問せずにいることは大変申し訳ないと思う気持ちが年々高まってきたからである。
衛生兵として従軍した父から、小さい時に折々に聞いたことで覚えていることは、多くの戦友がマラリアで死んでいき埋葬したこと、またマラリア用の薬がなかったこと、食べ物がなく栄養失調で沢山の兵隊が死んだこと、サンダカンという街の地名、市場で買物をする時に「これはいくらか」というのは現地の言葉でこう言うのだということなどである。また、こんな話もしてくれた。ボルネオで武装解除され捕虜生活を送っていた時、オーストラリア兵が「ウォッチ貸せ、ウォッチ貸せ」と言って時計を取り上げようとしたという。実際に取り上げられたかどうかは父は言わなかった。
また母親が語った事で覚えていることは、父親が戦争から無事返ってきた時の格好は、身体は痩せてガリガリ、顔は黒く、しかし目だけはギョロギョロしていたという。また父が戦地に赴く前に千葉に会いに行ったという。その時、何で遠い千葉に召集されたのかなと少し疑問に思った。
そして私のボルネオ行きを決定的にしたのには次のような話である。私は出発前に、実家の兄弟姉妹に父親の戦地であるボルネオを訪問するつもりだと話した。そしたら僕の小学校の同級生(故人)のお母さんのお兄さん(M青年)がわずか20歳で現地ボルネオのアピ(現在のコタ・キナバル)の捕虜収容所にあった野戦病院で昭和20年11月6日にマラリアと栄養失調で死亡したという。戦争は終わっていたけれど、十分な治療が受けられなかったのであろう。この話が聞いて青年の無念さが想像され、野戦病院跡地も絶対訪問することにした。
更に同級生のお母さんに、戦地から帰郷したばかりの父親が語ったという話は、まったく奇遇としか思えないものであり、同時に涙無しには聞けないものであった。このM青年と明治生まれの父親はお互い住んでいた富山県の家は歩いて五分ぐらいの距離であり、田んぼなどで作業をしていて良く会っていたという。しかし兵隊になってからは所属部隊が違っていたのでまったく行動を別にしていた。それが、偶然も偶然、二人はサンダカンの港でばったり再会したという。それもほんの瞬間であった。当時の北ボルネオの戦況は制海権も制空権も連合軍に奪われ、連合軍のボルネオ島上陸も相次いでいた。父親は富山の連隊とはまったく違う部隊に所属したおり、船の中にいたという。M青年の所属部隊は、富山の連隊の一部が別れて新たに別の他の部隊と一緒になって編成された混成部隊であり、港で暫時の休憩中であったという。多分、父親はその部隊の一部に富山県人がいることを知り、誰か知った者がいないか探したのかも知れない。そこでM青年をたまたま発見したのだろう。お互い大いにここで無事会えたことを喜んだという。しかし、悲しいかな。M青年の部隊は皆、腹が減ってぺこぺこであるという。それを聞いた父親は、自分らの部隊は少しは食料に余裕があったのか、飯をM青年たちに分けてやったという。しかし、まだ腹が空いていると言うので、すぐ飯ゴウで炊いてやるから待っているように言って、すぐ準備した。炊きあがった飯を急いで持って行くと、既にM青年の所属部隊は出発した後であったという。(当時の日本軍の動きに関しては補助資料39頁と50頁の年表を参照)
このようなことから、この旅行の目的は、父親がよく口にした町であり、M青年と偶然会ったサンダカンの港、及びアピ(現在のコタ・キナバル)の旧日本軍捕虜野戦病院跡地の訪問である。またサンダカンの港で二人が会った日時もできることなら特定したいし、どういう戦況の中だったのかも知りたいところである。ボルネオ旅行から帰って来て、資料を集め、読む必要があった。そして、この紀行文を書くことによって、賢い大人の日本人が何故あの無謀な戦争を起こしたのか、またその悲惨さは具体的にどのようなものであったのかという子供の頃からの疑問を少しでも解決したいという希望もあった。
父、正則
父、正則は明治43年(1910年)3月、金田家の長男として現在の富山県氷見市に生まれ、地元の高等農林に入学したが、父親が若くして病気で亡くなったので高等農林中退後、農業に従事し家族を養っていた。軍歴は最初、野戦重砲兵18連隊(上級部隊は東部軍、所在地は現在の千葉県市川市の北部の国府台こうのだい)に所属し、その後、陸軍船舶練習部(上級部隊は船舶司令部、所在地は広島市宇品うじな)に転属した。昭和19年(1944年)6月28日、宇品からボルネオに向け出発し、同9月1日ボルネオ着、昭和21年(1946年)3月29日に帰国した。戦後は農業改良普及員として地元の農協に勤務し、昭和48年死去。享年63歳。僕が25歳の時であった。自分は今、父親が亡くなった年齢を少し越えたところである。
なおボルネオ軍(第37軍)指揮下の所属部隊を調べたところ陸軍船舶練習部の名 前そのものは見つけることはできなかった。(補助資料40頁)しかし船舶に関する部隊名としては独立船舶工兵第1中隊と船舶工兵第10連隊第3中隊があった。父は多分このどちらかに属していたものと思われる。今回、いろいろ調べてわかったことは、軍隊は大隊、中隊単位で行動するので所属する連隊や旅団名がわかっても行動の詳細は判明しにくいことである。残念ながら県庁の担当部局に問い合わせても、父親の所属部隊の詳細はわからなかった。陸軍船舶練習部としか書いてないという。
M青年
大正14年(1925年)生まれ、昭和19年(1944年)召集、志願兵。最初、富山の歩兵35連隊に所属する。35連隊本隊は上級部隊である金沢第9師団と共に沖縄、台湾と転進し、最後は台湾で終戦を迎えた。一方本隊から分離した富山35連隊の残留部隊は昭和19年(1944年)7月28日に急遽編成された独立混成25連隊に合体された。M青年もボルネオに従軍していた時はボルネオ軍(37軍)主力部隊のひとつである、この独立混成25連隊に属していた。昭和19年(1944年)9月17日、広島市の宇品港を出発、9月27日ボルネオのラブアン島に到着、昭和20年(1945年)11月6日、アピ(現在のコタ・キナバル)の野戦病院で栄養失調とマラリアのため死亡、享年20歳。
アピ野戦病院跡地探し
出発にあたり、ボルネオの地図で訪問地を確認することにした。サンダカンはいろいろ耳にする機会があったのですぐ見つかったが、アピはどんなに大きな地図で探しても見つからなかった。おかしいなと思いインターネットで検索してみてやっと、現在のコタ・キナバルであることがわかった(注記49頁)。あまりの知識の無さに、自分としたことがまことに恥ずかしい限りであった。次に野戦病院跡地を特定しなければならない。現地へ突然行ってわからなかったら困るので、まず今回手配を頼んだ旅行社に聞いてみた。日本ではわからないが、この旅行社の現地オフィスがたまたまコタ・キナバルにもあるのでそこで聞いてみて下さいと言う。またその時に、現地の領事館出張駐在官事務所に聞いてみたらどうかというアドバイスも受けた。そこでメールで駐在官事務所に問い合わせたところ、現在のコタ・キナバル空港近くのタンジュン・アルというところだという。ここまでわかったので香港経由で最初の訪問地であるコタ・キナバルに向かった。コタ・キナバル滞在3日、サンダカン滞在3日の旅である。
タンジュン・アル・ビーチ
コタ・キナバルのホテルに着いた翌日、早速ホテル近くの旅行社現地オフィイスを訪れた。戦争中日本人捕虜の野戦病院があった場所はどこかと聞くと、若い現地人のスタッフは「昔のことですね。野戦病院があったことは知っていますが、詳しい場所は少し待って下さいね」と言って、その場で誰かに電話で聞いてくれた。すると野戦病院は空港近くのタンジュン・アル・ビーチにあったという。そのうちの第3ビーチがまさに野戦病院跡地だという。すぐにホテルに戻り、玄関正面に止まっていたタクシーを捕まえて、現地に向かった。タクシーのドライバーは現地の中年女性であった。夫もやはりタクシードライバーだという。このあたりの観光地や場所を良く知っていて、時間の無駄なくあちこち訪問するという僕の要望に応じてくれた。わからないことがあると、途中で休憩していた夫にも聞いてくれた。結局、コタ・キナバル滞在中はこのドライバーにすべてお世話になった。タンジュン・アル・ビーチの所在場所の詳細は補助資料を参照して下さい。
野戦病院跡地の第3ビーチの海岸、故郷の氷見市島尾の砂浜と似た海岸風景である。

第3ビーチの海岸、景色が非常に良い。戦争がなければ非常に良い保養地である。

第3ビーチの海岸、結構大きな熱帯性の木が生えている。




第3ビーチの海岸、海岸を整備して観光地として開発するためなのか、工事中であった。


第1ビーチでの筆者、数キロにわたるタンジュン・アル・ビーチのうち、第1ビーチと第2ビーチは現在リゾート地となっている。多分、このあたりは英国統治時代から保養地として開発されていたのであろう。

第2ビーチの海岸、いろんな設備が結構きれいに整備されている。

第1ビーチの海岸、このビーチが最初にリゾート地として開発されたと思われる。現地としては大変立派なレストランや宿泊施設がある


故郷の島尾海岸風景、タンジュン・アル・ビーチの海岸風景に似ている。M青年もそう思っていただろうか。

コタ・キナバル(旧アピ)日本人墓地
空港近くの道路沿いの少し高くなった所にコタ・キナバル日本人墓地がある。戦争が始まる前から、ここボルネオには日本人が仕事にきており、その人たちの墓である。草は生えておらずきちんと整備されていた。
幹線道路沿いにあるコンクリート階段を数メートル登ると墓地正面である。正面入り口には「コタ・キナバル日本人墓地」と書いてある。

墓地入口、鍵が掛けられており中に入れなかった。

柵越しに撮った写真。

コタ・キナバル(旧アピ)市街
日本軍と連合軍との最終戦場になったコタ・キナバル市街を散策してみた。もちろん、今では戦争の傷跡は全く見当たらない。
宿泊したホテル。

ホテル近くのナイト・マーケット。

宿泊したホテル近くのショッピング・モール内部。

サバ州立博物館正面。日本に関する展示があるかと思って訪問したが何もなかった。現地の自然や住居、暮らしに関する博物館であった。

博物館に保存してある伝統家屋群。

イスラム寺院。

中国人の仏教寺院。外観はぎらぎらしていて、自分としてはあまり心の安らぎが感じられない。また中国人の作る仏教寺院はどこでも金持ちになることを一番祈願するらしいので好みに合わない。

現地人自慢のサバ州庁舎の高層ビル。

サンダカン港
サバ州の州都であるコタ・キナバルを後にして、次の目的地であるサンダカンに向かった。ここでの目的は父親とM青年が出会ったサンダカンの港を見ることである。事前に問い合わせた日本政府現地駐在官事務所の領事の話だとボルネオ島のこのあたりは遠浅の海岸ばかりだが、サンダカンだけは少し深くなっており天然の良港だそうだ。ホテルの人に聞くと、このサンダカンには港が二つあるという。ひとつは町の中心部にあり、もうひとつは、そこから車で15分ぐらい行った所のぺラブアンというところだという。ぺラブアン港はサンダカン最大の港である。当時の戦況から判断して日本軍は小さな機帆船で移動していたと思うので、父親もそのような船に乗っていたものと思われる。父親とM青年が偶然会ったサンダカン港はこの町中心部にある港かぺラブアン港だったと推定される。(サンダカンの地図詳細は補助資料参照)
町中心部にある港は、ホテルから歩いて5分の距離であった。海岸沿いはホテルやレストラン街になっており、いつも多くの人で賑わっていた。

食事を楽しむ現地の人々や観光客が多くいた。後方に結構大きな船も見える。自分も昼、夜の食事はほとんどここで食べた。

停泊中の船が見える。機帆船も十分停泊できる大きさの港である。

1940年当時のサンダカンの風景。レストラン入口の壁上部に額に入れて飾ってあったので写真を撮った。南方のイギリス植民地の保養地という感じで町並みは当時からきれいである。

整備された最近の海岸通りの写真。

サンダカン最大の港、ぺラブアン港。後方に大きなタンカー、すぐ前に石油のパイプラインがみえる。周辺に民家は少なく、貨物港として使われている。富山県の伏木港のような感じであった。当時の戦況から判断して父親とM青年が出会った港はここではなく町中心部の港だったと思われる。

サンダカン日本人墓地
ホテルでタクシーを予約して日本人墓地を訪れた。タクシーの運転手に案内されて現地に向かうと途中少し草が生えており、足場の悪いところもあったが、駐車場から歩いて15分ぐらい登って日本人墓地に着いた。太平洋戦争が始まる前からこの地には日本人が働きに来ており、その人達の墓である。いろんな時代の墓があった。草ぼうぼうではなく管理されていた。案内してくれたタクシー運転手に尋ねると定期的に清掃しているという。
日本人墓地入口。

たまたま一緒になった同年輩の日本人の方と墓参りをする。キナバル山(標高4101m)登山に来たついでに墓参りに寄ったという。

大正7年に亡くなった人の墓。

いくつも墓がある。

1974年(昭和49年)に死亡した人の墓。

山腹に広がる中国人の墓群。歴史的背景から判断して、当たり前だが日本人のものに比べて圧倒的に数が多い。

サンダカン市街
宿泊したホテル玄関、町の中心部にあり、港のある海岸まで歩いて5分でいける。玄関正面に止まっているマイクロバスに乗って、天狗猿保護区に向かった。

ホテルの窓から見たアパートの光景。古くて、あまりきれいでない。しかし、これが現地では普通である。

ホテル近くの町中心部の通り。

大きな通りから一歩中に入った商店街。

バス・ターミナル。

サンダカン戦争記念館、いわゆる「サンダカン死の行進」の記念館がある公園である。戦争末期、日本軍は英豪2500人の捕虜をこの地に拘留して空港を建設していた。しかし連合軍の爆撃がひどくなりここを放棄して、捕虜をキナバル山の麓のラナウに向けて移動させた。この「死の行進」で生き残ったのは自ら脱走した6人だけだったという。日本軍のボルネオにおける転進も「死の行進」であったので、まさにこの戦争は敵味方が「死の行進」の犠牲になったと言える。

記念館の建物外観。

記念館内部。

記念館に通じる公園の歩道。

サンダカン天狗猿保護区
ボルネオ島は珍しい猿が住んでいることで有名である。近年ここを訪れる外国人観光客が多い。
入口の看板。

マングローブなど熱帯性の木や植物が生えている沼地の中に木の板で作った歩道が設置してある。30分ぐらい歩くと、やがて目的地の猿たちに餌を与える場所がある。日本軍も腹を空かして、こんな沼地を行軍したと思うと心が痛む。

途中の休憩所。

猿たちに餌を与える場所にある建物。事務所と休憩所、土産売り場などがある。

堂々たる体格の天狗猿。すぐ近くまで寄ってくる。ボス猿と思われる。鼻と男のシンボルが立派で、まるで見せびらかしているようである。天狗猿はハーレムをつくり、一匹のボス猿と複数のメス猿、子供達がひとつの集団をつくる。

オーストラリアや欧米からの観光客も多い。

オス猿の独身集団。オスは一定の年になると母親から離れて、この集団の仲間入りとなる。

画面後方に写っている中年の夫婦はベルギーの首都ブリュッセルから来た観光客である。ホテルからここ迄のバスの乗客は私とこの夫婦の3人だけであった。しかし、その時はお互い、会話はしなかった。私はこの夫婦が、今まで聞いたことのない言語で会話していたので、どこの国の人かなと思っていた。この保護区に着いてからいろいろ世間話をすると、夫はブリュッセルで庭師をやっているという。話していた言葉はごつごつしていてドイツ語のような発音だったのでオランダ語系のフラマン語だったのかもしれない。私がフランス語を勉強しているというと「フランス語で話しても良いよ」という。しかし、その後この夫婦とはずっと英語で会話した。夫はアメリカ人以上に陽気で気さくな人であった。彼が言うには、冬場の今は仕事がないし、自分たちには子供もいないので旅行を趣味にしているという。日本の東北地方も旅行したことがあるという。しかしベルギーでは庭師でもフランス語や英語を不自由なく話すのである。ブリュッセルは国際都市なので、そのようなことは聞いていたが貴重な実体験だった。

写真左の人がベルギー人夫婦の奥さんである。彼女は大変猿が好きなようであった。私がボルネオは父親が戦争に来ていたところで、その戦地巡りをしていると言うと、庭師の夫が言うには、自分の父親は17歳の時にベルギーでドイツ軍に逮捕され、ポーランドに強制連行されたという。戦後、彼の父親も強制連行されたポーランドの村を再び訪問したという。連行された時に知り合ったポーランド人の娘に会ったところ、彼女も庭師の父親を憶えていたという。僕が「何でドイツ軍はそんな若い青年を強制連行したのか?」と質問すると「それが戦争だ」と答えた。当時のナチス軍の行動からすると、なるほどそのとうりだと納得できる。

エサを与える場所に設置された猿観察場所。

天狗猿は日本猿よりおとなしい。一緒に自由に写真が撮れる。

あとがき
ボルネオ旅行から帰ってから2年半以上すぎてやっとこの訪問記を書くことができた。帰国してから半年か一年ぐらいで書くつもりであったがあまりにも知らないことが多く、また手元に必要な資料もなかったので遅れてしまった。特に実家のある富山県でしか集められない資料や情報もいくつかあり、まあまあ納得する文章にするのにこれだけ時間がかかってしまったのである。途中、10ケ月間のロシア留学も大幅な遅れの原因となった。
これで、出発前に考えていたこのボルネオ旅行の目的は、だいたい達成出来たと自分では思っている。父親とM青年が所属した大隊や中隊名がわからないので断定は出来ないが、両者が偶然出会ったサンダカン港は町中心部にあり、時期は昭和20年2月~3月と思われる。そして旧日本軍野戦病院跡地ははっきりタンジュン・アル第三ビーチと特定できた。
この紀行文を書くことは、戦後生まれの僕にとって、日本人も含め世界中の人が大きな犠牲を払った第二次世界大戦と太平洋戦争についてあらためて考えさせられ機会であった。直接、戦闘に参加していない自分が、参考資料を読んでいて強く感じたことを最後に二つ述べておきたいと思います。
一つめは資料2の富山連隊史にも述べられていることですが、日本軍のボルネオでの「死の行進」の謎である。この「死の行進」は「我が陸軍戦史上数少ないもの」とこの戦史にも述べられており、戦闘参加者には理由のわからない転進であったという。タワオ、又はサンダカンからアピ(現コタ・キナバル)までの移動によって多くの兵士の命が奪われた。栄養失調とマラリアなどの病気で兵士がどんどん亡くなっていく文書を読んでいると気がめいってくる。この転進理由については資料1の豊田穣氏の著作にもいくつか述べられている。しかし、その真相は今でもはっきりしないという。
アピからサンダカンにやっとのことで到着したばかりの部隊が、またすぐアピに戻るというわけのわからない転進命令を強いられた理由のひとつは次のように考えられている。はじめ南方総軍(37軍の上級部隊、司令部サイゴン)と大本営は東部のサンダカンを敵との最後の主戦場と判断していた。ところが昭和20年1月15日のB29三十機によるアピ大空襲以来、37軍(ボルネオ軍)司令部の考えは変わったという。今度は西部のアピを主戦場と判断したのである。それで再び主要な部隊をアピに結集させたという。
別の理由として戦闘現場である第37軍司令官とサイゴンにあった南方総軍司令部 との間に確執があったのではないかと「北ボルネオ 死の転進」(参考資料1)の著者、豊田穣氏は述べている。第37軍司令官の山脇大将はこの「死の行進」の兵力配置大転換については何も知らされずに、転進作戦直前に東京に人事移動させられたのではないのかと推量している。実際第37軍参謀長が、戦後ある本の序文で自分は死の行進については何も知らされていなかったと述べている。意味のない転進、理由のわからない作戦で死んだのでは全く浮ばれない。無念の限りであったと推量される。
ふたつ目に強く感じたことは、昭和20年8月15日の終戦より数ヶ月でも早く戦争が終わっていたら、人的、物的被害が格段に少なかっただろうということである。終戦間際に多くの人が亡くなっている。日本国最高指導部は昭和20年5月15日にソ連を通して連合国に対して終戦工作を依頼する方針を決めている。一方で6月8日に本土決戦方針を決定している。この段階でも被害はどんどん広がっていた。
当時各地の日本軍は連合軍に制海権、制空権も奪われ、食料の補給さえ出来ない状況だったのである。自分自身も中隊長として中国大陸を転戦した経験をもつ歴史学者によると、アジア太平洋戦争で戦没した日本人軍人・軍属の総数は約230万人にのぼり、その過半数は戦闘行動による戦死ではなく、食糧が補給されないために起きた飢餓状態による野垂れ死だったという(参考資料7)。ボルネオではどうだったか。上記の「北ボルネオ 死の転進」の最後の部分の記述によると、この死の行進に関係したボルネオ軍(第37軍)の総員約2万人、このうち1万余名が戦死、その大部分はジャングルの中で死亡しており、残りの1千余名はラブアン、ムアラ、ブルネイ、メンパクール、ボーポートの戦闘において戦死しているという。著者である豊田氏はこの本の最後で「密林の中でかくも多数の兵士が死亡した例は他にソロモン群島ガダルカナルとニューギニア、ビルマがあるが、短期間に多数が死亡した例としては、北ボルネオが最高であるかも知れない」と述べている。
補助資料の年表でわかるように、昭和20年(1945年)4月30日に既にドイツのヒットラーが自殺している。イタリアのムソリーニも4月28日に銃殺されている。ドイツは5月7日に無条件降伏しているのである。なんで日本国最高指導部は普通の理性的判断を出来なかったのか。つい70年ぐらい前の自分の国のことだと思うと時々ぞっとする。
しばしば、外から眺めると日本のことが良くわかるといわれる。外国に行くと、あらゆる場面で、否応無しに自分は日本人だということを意識させられる。戦後生まれの自分も、戦前の歴史に責任を負っているのを気付かされることがある。アジアを訪問した時は、できるだけ日本を客観的、歴史的に観察するように心がけている。そうすると、今の日中、日韓関係も理解し易くなる。戦後生まれの団塊の世代の一人である自分は、今、この北ボルネオ訪問記を書き終え、少しは気が楽になり、頭も整理出来た気がする。最後に戦没者の冥福を祈って筆を置きます。(2014年11月10日)
補助資料
写真は昭和38年(1963年)1月の豪雪の時に富山県氷見市島尾駅で撮影した父親の写真、当時52歳。
下の図は戦争末期におけるボルネオ軍主力部隊の兵力転進状況図である。(出典:参考資料1 )

37軍(ボルネオ軍)指揮下部隊一覧表(出典:参考資料1)、M青年の所属部隊の独立混成25連隊は37軍の主力部隊のひとつであった。父親の所属していた、陸軍船舶練習部の名前そのものは見られない。しかし古田、宮城中隊は船舶部隊である。陸軍船舶練習部は大変大きな組織だったので、その一部がボルネオに派遣されたものと思われる。いずれにしても作戦や移動の単位となる所属大隊や中隊がわからないと軍の動きがわかりにくいことを痛感した。資料のある富山県庁に問い合わせても、父親の所属は陸軍船舶練習部としか書いてないという。それ以上の細かい所属部隊は不明であった。

コタ・キナバル(旧アピ)の地図。赤丸は野戦病院のあったタンジュン・アル・ビーチ、日本人墓地、宿泊したホテルを示す。(出典:参考資料6)

サンダカンの地図。赤丸はサンダカン港海岸通りにあるレストラン街(セントラル・マーケット)、宿泊したホテル、戦争記念公園を示す。父親とM青年が会ったと思われるサンダカン港はホテルから歩いて5分ほどの距離であった。(出典:参考資料6)

石油基地があったタラカン(南ボルネオ領)での戦況を報道する当時の新聞(読売報知新聞、昭和20年5月9日付)。

同じく大きな石油基地があったバリックパパン(南ボルネオ領)での戦況を報道する当時の新聞(読売報知新聞、昭和20年6月26日付)この紙面からも日本軍の苦戦が読み取れる。

注 記
- 戦前軍隊の編成
- 方面軍:海外領土の駐留部隊を管轄する単位。北支那方面軍、ビルマ方面軍など。陸軍大将が司令官
- 軍:方面軍の下級部隊。通常海外領土におかれる。関東軍、南方軍、朝鮮軍など。陸軍中将が軍司令官
- 師団:軍の下級部隊。司令官は陸軍少将、兵員約1万人
- 旅団:師団の下級部隊。兵員約5千人
- 連隊:旅団の下級部隊。司令官は大佐、兵員約2千人
- 大隊:連隊の下級部隊。司令官は中佐か少佐、兵員約千人
- 中隊:大隊の下級部隊。司令官は大尉、兵員は歩兵なら約200人、砲兵では4門か6門
- 小隊:中隊の下級部隊。司令官は少尉か中尉、兵員は約50人
- 分隊、班:共に小隊の下級部隊。分隊は約10人、班は約5人からなる。
- 南方総軍 戦前陸軍の総軍のひとつで1941年(昭和16年)11月6日、東南アジア(南方)方面全陸軍を統括するために創設され、1945年(昭和20年)廃止。最終位置は仏印サイゴン
- 第37軍(ボルネオ守備軍) 1942年(昭和17年)4月にボルネオ守備軍が編制され、南方軍の戦闘序列に編入、旧英領ボルネオの守備を担当した。このボルネオ守備軍が1944年(昭和19年)9月12日に名称を第37軍に変更し、引き続きボルネオ守備を担い終戦を迎えた。最終位置はボルネオ島サボン(アピの南)。第37軍に所属した主な部隊は独立混成第56旅団、独立混成第71旅団、独立混成第25連隊であった。
- 第9師団 金沢に駐屯した師団で、富山駐屯の歩兵第35連隊の上級部隊。太平洋戦争時の第9師団の行動経過は次のようである。1940年(昭和15年)10月~1944年(昭和19年)6月、満州(北満牡丹江流域)警備、1944年(昭和19年)7月~12月、沖縄防衛、1944年(昭和19年)12月27日~1946年(昭和21年)1月、台湾防衛。これからわかるように第9師団は、はじめ対ソ決戦に備えて北満にまわされていた。しかし、ソ連はドイツとの戦争に手が一杯で満州を攻める気配がないということで、米軍が攻めてくるらしい沖縄へまわされた。ところが米軍は、沖縄と共に台湾をも攻撃するらしいということで、第9師団は沖縄から抜かれて台湾へ移動させられた。これは結果からみると、第9師団が北満から出た後にソ連が侵攻し、沖縄から抜かれた後に米軍の大軍が上陸し、台湾には連合軍がやってこなかった。これは第9師団にとっては稀にみる幸運であった。しかし富山県出身者が皆、第9師団に属していたわけではない。太平洋戦争になるとおびただしい数の師団が増設され、終戦の時の陸軍は普通師団169、戦車師団4、飛行師団15、合計188師団に達し、将兵の数は555万人であった。昭和初年の20個師団に比べると約10倍の増加である。従って各地で新たに編成された師団へ富山県の人々が多数召集された。第37軍に所属し、北ボルネオの戦闘に参加した独立混成25連隊もそのひとつである。
- 歩兵第35連隊 富山を所在地とする連隊で富山県出身者の多くが所属した。金沢の第9師団が上級部隊である。日本は1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争を開始した。はじめ日本政府は支那事変、日支事変、日華事変などと呼び宣戦布告も行わなかったが戦線は全中国に拡大し、太平洋戦争に発展した。第35連隊は1937年(昭和12年)9月9日動員命令を受け、上海から蘇州、南京へと進軍した。その後1938年(昭和13年)徐州会戦などに参加し中国各地を転戦し、激戦の末1939年(昭和14年)に帰還したが多くの戦死者を出した。兵員の三分の二が死傷するという痛ましいものであった。翌年の1940年(昭和15年)、第35連隊を含む第9師団は満州移駐の命を受けた。第35連隊はソ連との国境老黒山に三年余り警備にあたり、その後は第9師団と共に沖縄、台湾へと転進、高雄・新竹州で米軍の上陸に備えていて、そこで終戦となる。
- 独立混成25連隊 1944年(昭和19年)7月28日、第9師団主力が沖縄に派遣された後の残留部隊をもって満州で編成される。編成人員数2136名、連隊長、家村大佐。上級部隊はボルネオ守備軍の第37軍で北ボルネオ防衛が任務。8月3日、満州出発。その後、韓国釜山、門司、広島・宇品を経て9月27日、北ボルネオのラブアン島に上陸。
- アピ(現コタ・キナバル) アピの現在の地名はコタ・キナバルでマレーシア、ボルネオ島北東部、サバ州の州都。南シナ海に臨む港湾都市で海陸交通の要地。ゴム、木材、魚貝を輸出。ボルネオ観光の拠点で空路の要地でもある。日本軍占領中の1942年から1945年の期間はアピと呼ばれていた。1899年に英領北ボルネオの貿易港として建設され、日本軍占領中を除いて1967年まではこの地を支配した北ボルネオ会社副会長の名前にちなんでゼッセルトンと呼ばれていた。1963年にイギリスから独立しマレーシア領となり、1967年に現在名のコタ・キナバルとなった。人口の半分が中国人。経済的にはホンコンとの結びつきが強い。1991年現在で人口7万6千人(百科事典マイぺディアなどを参照)
- サンダカン ボルネオ島北東岸にある。マレーシア、サバ州の港湾都市。景観が良く、また人口の大部分が華人であることから<小ホンコン>の異称がある。サゴヤシ、タバコ、木材等を輸出。19世紀末から第二次大戦まで日本人が多く来住した。また大戦中は日本の捕虜収容所がおかれ、その虐待行為のため2500人のオーストラリア、英、米の捕虜が犠牲となった。1997年現在で人口12万6千人(出典:百科事典マイぺディアなど)
太平洋戦争史年表
(注:太字は北ボルネオ関係を示す)
1941.(S16)
12.8. ハワイ真珠湾空襲開始、米英両国に宣戦の詔書
12.10. マレー沖海戦、英2戦艦撃沈、日本軍グアム島を占領、フィリピン北部に上陸
12.25. 香港の英軍降伏
1942.(S17)
1.2. 日本軍、マニラを占領
1.23. 日本軍、ビスマルク諸島のラバウルに上陸
2.15. シンガポールの英軍降伏
3.1. 日本軍、ジャワ島に上陸
3.8. 日本軍、ラングーンを占領。日本軍、ニューギニアのラエ・サラモアに上陸
3.9. ジャワの蘭印軍降伏
4.5. 海軍機動部隊、インド洋に進出し、コロンボを空襲、英空母を撃沈
4.18. 航空母艦発進の米陸軍機16機、東京、名古屋、神戸などを初空襲
4.1. 日本軍、ビルマのマンダレー占領(南方進行作戦一段落)
5.5. 大本営、ミッドウェイー島・アリューシャン列島西部の攻略を命令
5.7. マニラ湾のコレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海海戦、日・米機動部隊の初の航空戦、双方空母1隻ずつ を失う(この結果ポートモレスビー攻略作戦一時延期)
5.18. 大本営、南太平洋のニューカレドニア・フィジー・サモア諸島を攻略する米豪遮断作戦の準備を命令6.5. ミッドウェイー海戦(日本、4空母を失い戦局の転機となる)
6.7. ミッドウェイー作戦中止、
6.8. アッツ島(米国領アリューシャン列島西端)に上陸
7.11. 大本営、ミッドウェイー敗戦の結果、南太平洋進行作戦の中止を決定。ニューギニアのポートモレスビ ーに対する陸路進行作戦を命令
7.25. 大本営政府連絡会議、ドイツの対ソ戦参加申し入れに対し、不参加を回答する旨決定
8.7. 米海兵1個師団、ソロモン群島のツラギおよびガダルカナル島に上陸
8.8. ガダルカナル島周辺海域で大1次ソロモン海戦。 8.24. 第2次ソロモン海戦
8.21. ガダルカナル島奪回のため上陸した一木支隊、ほとんど全滅
8.28. ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦中止。9.26. 撤退開始
9.12. ガダルカナル島で川口支隊攻撃開始、 9.14. 失敗
10.24. ガダルカナル島で、第2師団総攻撃開始。 10.25. 失敗
10.26. ガダルカナル島の攻防をめぐり南太平洋海戦。 11.14.第3次ソロモン海戦
12.8. ニューギニアのバサブアの日本軍玉砕(戦死800人)
12.31. 大本営、ガダルカナル島撤退を決定
1943.(S18)
1.2. ニューギニアでブナの日本軍玉砕。
1.20. ギルワから撤退(この方面の戦死者合計7600人)
1.31. 欧州東部戦線の独南方部隊、ソ連に降伏、
2.1. 日本軍、ガダルカナル島撤退開始。
2.2. 北方部隊も降伏(スターリングラード攻防戦終わる)
2.7. 1万1000人余の撤退完了(地上戦闘の戦死者・餓死者2万5000人)
3.1. ニューギニア増援のための日本輸送船団8隻、ダンピール海峡で全滅(海没者3600人)
4.18. 連合艦隊司令長官山本五十六、ソロモン群島上空で戦死
4.12. 米軍アッツ島(アリューシャン列島)に上陸。日本軍守備隊2500人玉砕
5.31. 御前会議、5.29.連絡会議決定の大東亜政略指導大綱を正式採択(マレー・蘭領インドの日本領土編入、ビルマ・フィリピンの独立を決定)
6.30. 米軍、ソロモン群島中部のレンドバ島・ニューギニア北岸のナッソウ湾に、7.3. ニュージョージア島に上陸
7.29. キスカ島(米領アリューシャン列島)の日本軍撤退
9.4. 米豪連合軍、ニューギニアのラエ・サラモアに上陸
9.9. イタリアの無条件降伏に関し、政府声明。同国艦船などの抑留などを実施
9.15. 日独共同声明、同盟を再確認
9.30. 御前会議、今後執るべき戦争指導大綱および右に基づく当面の緊急措置に関する件を決定(絶対防衛線をマリアナ・カロリン・西ニューギニアの線に後退)
10.2. ソロモン群島中部のコロンバンガラ島の1万2000人、撤退完了。10.6. ベララベラ島からも撤退10.2. 学生・生徒の徴兵猶予停止、12.1. 第1回学徒出陣
10.14. フィリピン共和国独立宣言、日比同盟条約調印
11.1. 国民兵役を45歳まで延長
11.1. 米軍、ソロモン群島北部のブーゲンビル島に上陸
11.6. ソ連軍、キエフを奪回
11.18. 英軍、ベルリン夜間大空襲(前後5回、住民死者2700人余)
11.21. 米軍、ギルバート諸島(太平洋中西部、赤道の南北に連なる諸島)のマキン、タラワ両島に上陸、両島守備隊5400人玉砕
12.24. 徴兵適齢を1年引下げ
1944.(S19)
志願兵M青年(大正14年生まれ)召集さる、富山35連隊に所属(上級部隊は金沢の第9師団)
1.7. 大本営、インパール作戦を許可、3.8. 作戦開始
1.14. ソ連軍、レニングラード戦線で大攻勢開始、1.20. レニングラードを独軍から解放
2.1. 米軍、マーシャル群島のクエゼリン、ルオット両島に上陸、2.6. 両島守備隊6800人玉砕
2.17. 米機動部隊、トラック島空襲、艦隊43隻沈没、航空機270機損失
2.29. 米軍、アドミラルティー諸島(ニューギニア島北東方に分布する島々)のロスネグロス島に上陸。この結果ラバウル地区(パプアニューギニアのニューブリテン島北東部の海軍航空隊基地)は米軍の背 後に孤立(1944年2月までの南東方面の損害合計、死者13万人、艦艇70隻、船舶115隻、飛行機8000機)
3.31. 米軍、パラオ(西太平洋)に来襲、連合艦隊司令長官古賀峯一大将、これを避けダバオ(フィリピン、ミンダナオ島南東部の港湾都市)に赴く途中行方不明。
4.5. 殉職発表
4.22. 米・豪連合軍、ニューギニア北部のビアク島に上陸
6.6 連合軍、ノルマンジー上陸
6.15. 米軍、マリアナ群島のサイパン島に上陸、 7.7. 守備隊3万人玉砕、住民死者1万人
6.16. 中国基地の米軍B29爆撃機、初めて北九州を空襲
6.19. マリアナ諸島(サイパン、グアムなどの島々からなる)沖海戦、(日本海軍、空母、航空機の大半を失う)
6.28. 父、正則、広島市宇品(うじな)を出発してボルネオに向かう
7.4. 大本営、インパール作戦の失敗を認め、作戦中止を命令(作戦参加10万人中、死者3万人、戦傷病者4万5000人)
7.10. 独立混成第25連隊編成下令、連隊長に家村新七発令
7.15. 東条内閣総辞職
7.20. 独立混成25連隊家村部隊長、満州牡丹江に着任
7.20. 独陸軍によるヒットラー暗殺計画失敗(7.20事件)
7.21. 米軍、グアム島に上陸、 8.10. 守備隊1万8000人玉砕、 7.24. 米軍、テニアン島(マリアナ諸島のひとつで、サイパンの南に位置する)に上陸、 8.3. 守備隊8000人玉砕
7.24. 独立混成25連隊長家村部隊長、満州エキ河に着任
7.28. 第9師団(所在地、金沢)の主力、沖縄に派遣さる。残留部隊をもって独立混成25連隊編成完了(2136名)
8.3. 独立混成25連隊、出動命令下令、エキ河出発
8.4. 米中、連合軍、ビルマのミートキ―ナを占領(日本軍、守備隊長以下1000人戦死)
8.5. 大本営政府連絡会議、最高戦争指導会議と改称
8.8. 独立混成25連隊、釜山到着
8.19. 最高戦争指導会議、対ソ特派使節派遣を決定
8.23. 独立混成25連隊、釜山出発
8.24. パリの市民、反独武装蜂起、
8.25. 連合軍パリ入城、ドゴール凱旋
8.27. 独立混成25連隊、門司港付近に停泊、船団編成待機
9.1 父、正則、ボルネオに到着
9.9. 独立混成25連隊、広島市内に上陸待機
9.10. 雲南の拉孟の日本守備隊1400人玉砕、
9.14. 騰越の守備隊1500人玉砕
9.15. 米軍、パラオ諸島のぺリリュー島およびニューギニア西方のモロタイ島上陸(ベリリュー守備隊は2ヶ月以上抗戦をつづけ玉砕)
9.16. 駐ソ大使佐藤尚武、モロトフ外相に特派使節のモスクワ派遣を提議、拒否される
9.17. 独立混成25連隊、戦艦山城扶桑に乗艦、広島の宇品港を出発
9.25. 独立混成25連隊を乗せた戦艦山城扶桑台湾沖通過
9.27. 独立混成25連隊第1陣、ブルネイ近くのラブアン島に到着
9.28. 戦争最高指導会議、対ソ施策に関する件決定(ソ連の中立維持を利用)
9.29. 独立混成25連隊、ラブアン島上陸開始、上陸用海軍カッター転覆、6名の海没者出す
10.1. 独立混成25連隊、機帆船(小型木造船でエンジンと帆で動く)に分乗して北ボルネオ東部のサンダカンに入港、第2大隊(山本大隊長)をサンダカンの守備に配す。しかし、この地域の制空権は既に米軍に握られていたため、途中空襲を受ける船、撃沈される船もあった。
10.10. 米機動部隊、沖縄を空襲、
10.12. 台湾沖航空戦、 大本営、大戦果を発表(事実は戦果無し)
10.16. 17歳未満の者の志願を許可
10.17. 第2大隊を除く独立混成25連隊の主力は連合艦隊の基地があるタウイタウイ島(サンダカン沖)に向かって出発。しかし連隊到着時には既に少数の海軍部隊と連絡用飛行機一機を残すだけとなっていた。
10.18. 17歳以上を兵役に編入、11.1. 施行
10.18. 大本営、捷1号作戦発動を命令(フィリピン方面に陸海軍の主力を集中し、決戦を行う作戦)
10.19. 独立混成25連隊の主力、タウイタウイ島バトバトに上陸、同島の守備につく
10.20. 米軍、フィリピン中部のレイテ島に上陸
10.24. レイテ沖海戦(連合艦隊の突入作戦失敗、武蔵、瑞鶴など主力を失う)
10.25. 海軍神風特攻隊、レイテ沖で初めて米艦を攻撃
10.25. 中国基地のB29、約100機、北九州を空襲
11.1. マリアナ基地のB29、東京を初偵察、 11.24. マリアナ基地のB29約70機、東京を初爆撃
12.19. 大本営、レイテ地上決戦方針を放棄。
12.20. 第37軍司令官、各兵団長をアピに召集して命令を下す。これに従いタウイタウイ島の独立混成25連隊は(二個大隊)は西海岸に転用される。この時、既にタウイタウイ島沖には敵連合艦隊の大型空母が時おり顔を出し、艦砲射撃も行う。
1945(S20)
1.9. 米軍、ルソン島に上陸 2.3. マニラ市内に侵入
1.18. 最高戦争指導会議、今後採るべき戦争指導大綱を決定(本土決戦即応態勢確立など)
1.25. 最高戦争指導会議、決戦非常措置要綱を決定(軍需生産増強、生産防衛態勢強化など)
1月 レイテ決戦に失敗した南方軍は、37軍にボルネオ配備の重点を西海岸地区に変更するよう命令(この
作戦変更の理由については謎が多く、まして兵力移動の困難性を無視したものとして批判が多いという)
2.4. 米英ソのヤルタ会談開く、2.11. 対独戦後処理、ソ連の対日参戦などを決定
2.5. 独立混成25連隊、タウイタウイ島バトバトから北ボルネオ西海岸に転進命令、海軍掃海艇、駆潜艇に分乗出発
2.6. 独立混成25連隊、タワオ(北ボルネオ東海岸)に到着上陸。この時、既に行軍に耐えられない重症病者は連隊総数約二千人のうち四百数十名にのぼり、これらの兵はタワオに残置される。
2.16. 独立混成25連隊、西海岸アピ(現コタ・キナバル)に転進するためタワオ出発
(600kmのボルネオ横断、死の行軍の途につく)
2.16. 米機動部隊、艦載機1200機をもって関東各地を攻撃、
2.19. 米軍、硫黄島に上陸。 3.17.守備隊全滅(戦死2万3000人)
3.9. B29,東京を大空襲、江東地区全滅(23万戸焼失、死傷者12万人)
3.14. 大阪を空襲(13万戸焼失) 5.24.~5.25. 宮城全焼のほか東京都区内の大半焼失
3.18.~3.19. 3.28.~3.29. 九州各地を攻撃
3.24. 独立混成25連隊の戦闘部隊、アピ(現コタ・キナバル)到着、同地区の守備につく。後続の行軍部隊集結、戦力の回復をはかる
4.1. 米軍、沖縄本島に上陸、 6.23. 守備隊全滅(戦死9万人、一般国民死者10万人)
4月 フィルピンから出撃した連合軍航空機によるボルネオ地区日本軍基地への事前空襲が激しくなる4.5. ソ連外相モロトフ、中ソ大使佐藤尚武に日ソ中立条約不延長を通告
4.14. 独立混成25連隊第3大隊(玉木大隊長)トアラン(アピ北方の町)付近の警備
4月中旬 ボルネオ地区日本軍は連合軍の上陸が迫っていると判断し、自ら製油施設を破壊
4.22. ソ連戦車隊、ベルリン市内に突入
4.27. ムソリーニ、コモ湖畔(イタリア北部)で民衆義勇軍に逮捕される、
4.28. 銃殺(61歳)
4.30. ヒトラー、ベルリンの地下壕で自殺(56歳)
5.1. 北ボルネオ東岸のタラカン島にオーストラリア軍を主力とする連合軍11800人が上陸。日本軍2200人と6月中旬まで激しく戦闘。日本軍1500人戦死、250人捕虜。オーストラリア兵225人戦死
5.1. 独立混成25連隊第1大隊、(大河内大隊長)ブルネイ付近の警備
5.2. 英軍、ラングーンを占領
5.7. ランス(フランス)および5.8.ベルリンで独軍、連合国への無条件降伏文書に署名
5.9. 政府、ドイツの降伏にもかかわらず日本の戦争遂行決意は不変と声明
5.14. 最高戦争指導会議構成員、会議を開き対ソ交渉方針決定(終戦工作始まる)
6.8. 天皇臨席の最高戦争指導会議、今後採るべき戦争指導の基本大綱(本土決戦方針採択)
6.10. ブルネイ湾とその近くのラブアン島にオーストラリア軍を主力とする連合軍29000人が上陸。1週間でラブアン島の日本軍守備隊は全滅。その後連合軍はブルネイ南のミリ方面に日本を追撃。オーストラリア軍の記録によると、ブルネイ湾一帯の戦闘で日本軍1200人以上が戦死、オーストラリア軍は114人が戦死
6.11. 独立混成25連隊第1大隊、ボーホート(アピ南方の街)付近の戦闘に参加
6.13. 国民義勇戦闘隊結成のため、大政翼賛会および傘下諸団体解散
6.23. 義勇兵役法公布(15歳以上60歳以下の男子、17歳以上40歳以下の女子を国民義勇戦闘隊に編成)
6下旬 マリアナ基地のB29の他に、沖縄基地のB24,硫黄島のP51などが加わり、中小都市の焼夷攻撃、交通破壊攻撃激化
7. 1. 艦砲射撃の後にバリクパパン(旧オランダ領南ボルネオ)にオーストラリア軍が上陸。連合軍の参加兵力は33500人で第二次世界大戦最後の大規模上陸作戦であったと言われている。
7.3. 猛烈な艦砲射撃の支援の下、連合軍17000人が上陸。日本軍11000人と戦闘、日本軍は次第に拠点を失い、7.9.に飛行場を失う。オーストラリア軍の記録によると日本軍1800人、オーストラリア軍229人が戦死
7.10. 最高戦争指導会議、ソ連に終戦斡旋依頼のため近衛文麿の派遣を決定、7.13. ソ連に申し入れ、 7.18. ソ連拒否
7.10. 米機動部隊、関東各地空襲、
7.14. 東北、北海道空襲、以後全国かくちを空襲
7.17. ポツダム会談開く(トルーマン、チャーチル、スターリン) 7.26. 対日ポツダム宣言発表
7.20. 独立混成25連隊第3大隊、アピ(現コタ・キナバル)に移動
7.28. 鈴木首相、記者団に対しポツダム宣言黙殺、戦争邁進と談話
7.30. 佐藤中ソ大使、ソ連に条件付き和平の斡旋を依頼
8.6. B29,広島に原子爆弾投下(死者20数万人)
8.8. ソ連、対日宣戦布告(日本は8.9.の放送で知る)、北満、朝鮮、樺太に侵攻開始
8.9. B29,長崎に原爆投下
8.9. 御前会議開催、8.10.午前2時半、国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定、
8.10. 政府、中立国スウェーデン、スイスを通じて、連合国へ申入れ
8.11. 新聞各紙、情報局総裁下村宏の国体護持の談話、陸相阿南惟幾の全将兵への断固抗戦訓示を並べて掲載
8.12. 日本の降伏条件に対する連合国の回答公電到着(天皇制には直接ふれず)
8.14. 御前会議、ポツダム宣言受諾を決定、中立国を通じて連合国へ申入れ
8.14. 天皇、戦争終結の詔書を録音
8.15. 陸軍一部将校、終戦阻止の反乱、録音盤奪取をはかったが鎮圧される
8.15. 正午、戦争終結の詔書を放送、第二次世界大戦終わる(太平洋戦争の戦没者、1947年の政府発表では陸海軍人155万5308人、一般国民29万9485人、しかし事実上は合計300万人に達すると推定される。世界における行方不明者を含む推定死者約1683万人、負傷者約2670万人)
8.15. 鈴木内閣総辞職
8.18. 独立混成25連隊に停戦命令下る、8.20.戦闘停止、 9.9. 上級部隊の第37軍
(ボルネオ守備軍)全面降伏
8.20. タワオ(北ボルネオ東海岸)に豪軍が上陸、現地の独立混成25連隊は邦人約1000人と共に同地を出航 し、26日アピに終結
8.23. スターリン、中国の全東北の開放を宣言
8.28. 連合軍先遣部隊、厚木飛行場に到着、
8.30. 連合国最高司令官マッカーサー、厚木に到着
9.2. 米艦ミズーリ号上にて降伏文書に調印
9.29. 英蘭軍、日本軍武装解除のためバタビア(現ジャカルタ)着、活動開始、インドネシア人民軍(10.8. 結成)との間に戦闘始まる
9.30. 情報局、独立陸軍内地部隊の復員は9.24.迄に80%以上終了、10.15.には完了の予定と発表
10月下旬 独立混成25連隊各地残留者、アピ(現コタ・キナバル)に終結完了、収容所生活に入る
11.6. 志願兵のM青年、栄養失調とマラリアのためアピの野戦病院で死亡(享年20歳)
12月 タワオ(北ボルネオ東海岸)から西海岸へ「死の行軍」最後尾を行軍中の第一機関銃中隊、アピに到着、 収容所に入る(編成人員53名中39人死亡)
12.1. 陸軍省、海軍省廃止の件および第一復員省、第二復員省官制各公布
12.4. 政府、農地調整法改正案を衆議院に提出、 12.9.GHQ,農地改革に関する覚書、
12.18. 改正案成立
12.17. 米軍俘虜に対する暴虐行為容疑者に対する軍事裁判、横浜地裁で開廷
1946(S21)
1.4. GHQ,軍国主義者の公職追放および超国家主義団体27の解散を司令
3.21. 病院船「すみれ丸」がラブアン島(ブルネイ近くの島)に入港し、重症患者を先発させる。
3.29. 父、正則帰国
3.29. 第1次復員船の貨物船に独立混成25連隊主力800名、乗船、帰国の途につく。
4.13. 第1次復員船の貨物船が広島大竹港に到着、復員
4.16. 病院船「すみれ丸」広島大竹港に入港
4.26. 独立混成25連隊第2次復員部隊、生き残り空母「葛城」により広島大竹港に到着、復員
11.3. 日本国憲法公布、1947.5.3 施行
12.5. 樺太引揚第1船、函館入港、
12.8. シベリア引揚第1船舞鶴入港
参考資料
(1)「北ボルネオ死の転進」豊田穣、集英社文庫、昭和62年(1987年)8月25日 第1刷
著者は大正9年(1920年)生まれの海軍兵学校卒で、昭和18年4月、ソロモン沖での空中戦で撃墜され、漂流一週間、米軍に捕われるも奇跡的に帰還した戦争の生き残りである。こういう人たちの作品には、戦争から生きて帰って来た者の責任感と気迫が感じられる。その文章は経験者しか書けない具体性と迫力、緻密性に満ち満ちている。その典型が大岡昇平の「レイテ戦記」(昭和46年初版、中央公論社)であろう。地図や資料付きでA5判、695頁のこの大作は、著者のどうしても書いておかなければ死ねないという並々ならぬ強い気持ちが、ひしひしと伝わってくる著書である。
(2)富山連隊史、非売品、編集発行 富山連隊史刊行会、代表者 瀬島龍三、昭和61年(1986年11月17日)発行
(3)富山県の昭和史、北日本新聞社発行、平成3年(1991年)2月1日発行
(4)近代日本総合年表 第二版、岩波書店発行、昭和59年(1984年)5月25日発行
(5)世界史年表・地図第19番、吉川弘文館発行、平成25年(2013年)4月1日発行
(6)「地球の歩きかた マレーシア、ブルネイ 2011~2012年版」、ダイヤモンド社
(7)「餓死した英霊たち」藤原彰、青木書店、2001年


コメント
はじめまして。
北ボルネオのお話、拝読しました。
最近祖父の人生を調べ始めたのですが、1945年6月から終戦まで独歩第774大隊の衛生兵として北ボルネオにいたことがわかりました。
終戦後アピの収容所におり、1946年4月25日に大竹港に帰国、復員完了しています。
文末にある参考文献以外に、北ボルネオでの戦闘記録や復員経緯などで参考になる書籍がもしあれば、アドバイス頂けると幸甚です。
ご連絡が遅くなり申し訳ございません。このたびはボルネオの記事をお読みいただきありがとうございました。ご質問の内容ですが、この参考文献以外にめぼしい資料はありません。多分ネットで検索して他の情報も得られていると思いますが、ネット以外では根本的には厚生労働省や防衛省の戦史資料館に問い合わせるしかないと思います。自分もそうして父親が属していた部隊名も正確に知りました。実は「”ある戦後生まれ”の戦争論」という本をアマゾンで出版する予定です。原稿は完成しているので数ヶ月後に出版されると思います。それを読んで頂ければより詳しく分かると思います。出版されたらブログで紹介します。もしご興味がございましたら、お手に取っていただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
突然失礼いたします。
母の兄がボルネオ島で戦死しました。家村部隊所属でした。
私が小学生の頃、33回忌とのことで戦友の方が善光寺で法要を営まれ参拝しました。また、その1、2年後、高野山に慰霊碑を建立されその記念法要にも参列させていただきました。
その折、戦友の方と母の話を聞いていたり、戦友の方が書かれた本などを見た記憶があるのですが、何分にも小学生であまり理解もできず、また記憶もあいまいです。
最近、覚えている単語でネット検索をしています。戦友の方が書かれた本も探しています。
ずっと、どこの港から日本を離れたのだろう。最後に見た日本はどこだろうと思っていました。このブログを拝見して、宇品だとわかりました。ありがとうございます。
お役にたててうれしいです