越中屋弥左衛門のぼっち旅(国内編)
<第10話>
富山県の獅子舞と氷見線伏木駅周辺の名所
国宝・勝興寺と伏木気象資料館
(2023年9月8日~9月11日)
コロナも少し治まったので、久し振りに9月8日から三泊四日で富山の実家に帰省した。墓参りや地方史の資料調査の合間に、是非見たかった地元の獅子舞を見物し、国宝に指定されたばかりの勝興寺を訪問した。
阿尾の獅子舞
獅子舞は主に能登地方と富山県西部で行われている祭りのイベントである。
阿尾は氷見市北部に位置し、氷見線終着駅の氷見駅から約4キロの位置にあり、城山という岬が地域のランドマークである。また、氷見線の途中には有名な雨晴海岸があり、年中観光客で溢れている。

阿尾の城山

雨晴海岸
氷見市ではほぼすべての部落で、青年団を中心に行われている。そして、部落毎に舞のリズムや踊りの内容・掛け声・「花」という寄付を受けた時の口上が少しずつ異なり「部落色」があるのが面白い。今は春に実施する部落と秋に行う部落に別れているようである。
例によって氷見市でも青年が減り、人出不足ではあるが、阿尾では秋に小学生も総動員して実施されている。弥左衛門も子供の頃からこの獅子舞の行列の後ろに他の子供たちと一緒にゾロゾロついて回った。
部落の全戸を徹夜で回り、舞を披露する。そして疲れると、「宿」と称した休憩場の民家で食事と飲物・酒を楽しむ。その年に嫁さんが来た家と住居を新築した家では特別にめでたい舞をいくつも披露する。その時、「花を打つ」のが慣例で、最低今は五千円の「金一封」、又は酒一升を青年団に寄付するという。
寄付を受けた時の感謝の口上を述べるのが青年団長の重責で、その内容が団長の役者的センスと文才の見せ所である。この「花」ひとつで舞は数分である。何個も「花」を打つとその分だけ多く踊ってくれる。嫁さんの実家や親戚・仕事仲間なども花を打って舞を盛り上げる。

これは嫁さんをもらった家での舞である

舞が終わって山車(だし)が次の家に移動する
当日撮影した雰囲気が分かる動画。各家庭を回って踊る。夜も行われる。
国宝・勝興寺
弥左衛門はここ10年ぐらい帰省するたびに、気が向けばJR西日本の氷見線伏木駅に下車して勝興寺を訪問してきた。
ところがここ十年ぐらいは、いつ行っても修理・工事中で木の柱や工事用資材が伽藍内に転がっていた。内装も工事中であった。いつ、この工事は終わるのかなと思っていたところ、今回帰省したら高岡駅で「勝興寺大修理完成!国宝に指定される」の垂幕をみたので早速訪問したというわけである。
貰ってきたパンフを見ると、平成10年(1998年)から令和2年(2020年)までの23年間かかったという。これは大工事である。
ボランティア・ガイドの方の話によると、国の文化庁の担当者は、「姫路城並みの金がかかった」とぼやいていたという。またすぐ近くに高岡市万葉歴史館がある。ここも過去二回訪問したことがある。この場所は昔、大伴家持が国守として赴任し、多くの和歌を詠んだ地として有名である。

パンフ表

伽藍配置図

伽藍内の立て札の説明

高麗門形式の総門

正面から見た本堂(国宝)

大広間との渡り廊下側からみた本堂

大広間(国宝)と式台

宝蔵(左の白壁の建物)と望楼を思わせる鼓堂
総門近くの望楼は一向一揆の寺の特徴である。城のような守りで、立てこもった時の監視台とした。

経典を納めておく経堂
内部に極彩色の輪蔵があるという。
高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)
勝興寺を見た後、帰りの汽車の時間があったので伏木気象資料館に立ち寄った。
勝興寺から歩いて数分の距離である。ここは、子供の時から関心があったが、いつも横目に見ながら今までは通過していた。今回はノボリも立っており、管理人もいるようなので少し見ていくことにした。
随分昔のように記憶しているが、伏木測候所が気象庁の無人化対象施設となり、市・議会・地元が一体となって存続に向けた要望が行われていたことは知っていた。
今回、パンフを見てみるとそれは1996年(平成8年)であることが分かった。そして二年後の1998年(平成10年)3月に測候所は自動化(無人化)になった。技術の進歩と世の流れである。しかし、伏木測候所存続の市民の思いは強く、2017年(平成29年)に明治2年当時の立派な塔屋が復元され、今の気象資料館となった。
ここでは今でも気象観測は行われ、そのデーターは有線ケーブルと宇宙衛星を通じて気象庁のデータ・センターに送られているという。受付の女性ボランティアの説明によると、伏木測候所の気象データーは近年重要性を増し、地球温暖化の基本データーに使われているという。それは伏木港近代化の恩人・藤井能三が明治16年という極めて早期にこの測候所の前身を私立測候所として開設し、そのデーターが残っているからである。西洋船の伏木港出入りに為には基礎的気象データーが絶対必要条件であった。
今までも、北前船が多数出入りしていたが、帆船による潮まかせ・風まかせから、動力付きの西洋船用の港になるためである。三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎から藤井能三が強く求められたという。その代わり、荷揚量が格段に増加し商売繁盛というわけである。
この日もたまたま測風塔などの点検・整備のために気象庁の職員が施設を訪れていた。この施設全体の土地・建物は高岡市が国から払い下げを受け気象資料館として管理・運営している。現在は国登録有形文化財である。

パンフ表紙

藤井能三の銅像と説明
日本はどこに行っても明治時代に、地方の教育と産業振興に私財を投げうって貢献した人物が一人や二人いる。これらの人が旧支配階級の武士ではなく農民や町人であるところが興味深い。それだけ江戸末期には資本蓄積が進み、封建社会崩壊の経済的基盤が準備されていたのであろう。藤井能三は富山県で最初の小学校を明治6年に、この伏木につくっている。そして明治10年には日本海側で最初の西洋式灯台を、明治16年には私立伏木測候所を建設している。この藤井能三も1880年代の松方デフレで全財産を失ったという。

越中国守館跡
この気象資料館敷地には大伴家持の館があったと伝えられている。
以上で今回のボッチ旅の紹介は終わりとなる。氷見市・阿尾周辺は旨い魚が一年中食べられるので、ぜひとも機会があれば一度訪れて欲しいと思う。
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(2023年9月20日記)
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