スポンサーリンク

【火縄銃論雑感 】火縄銃伝来の歴史・その後の銃器の発展・生産技術・日本と世界の歴史に与えたインパクトについて

ブラブラ日帰り旅日記-お城・遺跡・名所・旧跡巡り紹介-

はじめに

火縄銃が日本の天下統一に重要な役割を果たしたことは、日本人なら大体知っている。1575年「長篠の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼に勝利した戦いで、信長が3000丁の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させ、天下統一に大手をかけたことはあまりにも有名である。

そして火縄銃が日本の種子島に伝わったのは、これよりわずか約30年前の1543年である。種子島に流れ着いたポルトガル人は鉄砲を持っていた。火縄銃の試し打ちを見た種子島の領主はその威力に驚嘆し、即座に大枚をはたいて火縄銃二丁を購入したという。

驚くのはそれからの普及のスピードである。一年後には日本人は「数十の鉄砲」を製造したという。このことは、当時の日本人は世界最先端の武器を自前でつくる技術を持っていたことを示している。一方、同じ頃、海の向こうの中南米ではスペイン人が数百の兵と騎馬隊、火縄銃で先住民を攻撃し、1533年インカ帝国は滅亡している。百丁あまりの鉄砲でこんなに簡単に文明が滅ぶのかと、この史実を初めて知った時、越中屋弥左衛門は驚いた経験がある。

そこで、この雑感では火縄銃伝来の歴史、その後の銃器の発展、生産技術、日本と世界の歴史に与えたインパクトについて感じたことを記す。

スポンサーリンク

火縄銃の世界史

火縄銃関連年表

以下に火縄銃の進歩と世界史に与えた影響に関する年表を記す。

・960年  古代中国の四大発明(羅針盤、・紙・印刷・火薬)のひとつである黒色火薬がこの頃発明される。

・1219年~1224年  チンギス・ハンの征西。

・1241年  リーグニッツ(ポーランド南部)の戦いで、バトゥ率いる蒙古軍が、ドイツ・ポーランド連合軍に大勝利する。蒙古人のバトゥ及びスブタイの東欧征服。

・1271年~1295年  マルコ・ポーロが中央アジア・中国を旅行し、『東方見聞録』を著す。

・1274年  第一回元寇(文永の役)、日本人、はじめて「てっぽう(火薬兵器)」を知る。

・1313年  ベルトール・シュバルツ(ドイツ)が銃砲用の火薬を発明。

・1338年  英国軍艦に初めて火砲が搭載される。

・1355年  中国人、この頃火竜槍(世界最古の小銅銃)をつくる。

・1381年  ドイツで小銃が発明される。

・1399年  ドイツで「タンネンベルグ銃(ヨーロッパ最古)」が発明される。

・1400年  この頃、イタリアでルネサンスがはじまる。

・1410年  この頃ヨーロッパで火砲・小銃が普及する。

・1430年  ヨーロッパ人、ムスケット銃と呼ばれる長い北欧式火縄銃を発明。

・1467年  応仁の乱起こる。この頃、ヨーロッパで金属巨砲がつくられる。

・1492年  コロンブス、アメリカ大陸発見。「大航海時代」と「大西洋奴隷貿易時代」がはじまる。この頃、火縄式発火装置が発明される。

・1510年  ポルトガル、インドのゴアを占領する。青銅製大砲を伝える。

・1519年  スペイン人のコルテスがメキシコを征服する。マヤ文明が滅亡する。

・1521年  ヨーロッパ人、アルケビュース銃(短い南欧式火縄銃)をつくる。

・1532年  スペイン人のピサロがペルーを征服し、インカ帝国が滅亡する。

・1543年  ポルトガル人、種子島にアルケビュース型火縄銃を伝える。日本人は、直ちに薩摩、根来(紀州)、国友(近江)において鉄砲製造を開始する。国友(近江)、日野(近江)、堺(和泉)がその後、鉄砲主要生産地として栄える。この頃から、日本人奴隷が海外に連れ出される。

・1575年 「長篠の合戦」で信長の鉄砲隊が武田の騎馬隊を破る。信長は馬防柵を設け、3000丁の鉄砲隊で武田軍の騎馬隊を破っている。

・1592年  秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)で日本軍は鉄砲を主体に朝鮮・明軍を圧倒。これに対して、朝鮮水軍は亀甲船(亀の甲羅形をした軍艦)で応戦し日本軍を破った。

・1597年  第二次朝鮮侵略(慶長の役)で秀吉は鉄張り戦艦と大砲を有する大艦隊を送り込む。

・1583年  ガリレオが振子の等時性を発見する。この後、ヨーロッパで近代科学が発展する。

・1610年  家康、国友(近江)鍛冶に大砲を造らす。この頃、東南アジア各地に日本人町ができる。山田長政のいたタイのアユタヤでは1500人、マニラでは3000人、その他カンボジアのプノンペン、バタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)にも存在した。また日本人奴隷も南蛮貿易の対象となった。彼らはインドのゴア、中南米にも住んでいた。

・1611年  堺(和泉)鍛冶が日本最初の一貫百目玉鉄製大砲を造る。

・1614年  大阪冬の陣、徳川軍大砲で大阪城を砲撃。

・1631年  後金(清)、西洋の大砲を用いて明朝末期の反乱軍の首領・李(り)自成(じせい)の反乱を鎮圧する。

・1637年  島原の乱、幕府軍は反乱軍の鉄砲に悩まされる。一時的にオランダ商船に依頼して海上から砲撃する。

・1639年  徳川幕府が鎖国政策をとる。

・1640年  島原の乱で榴弾(りゅうだん)(弾丸が着弾すると中の火薬が爆発する)の必要性を認識した幕府は、オランダに臼砲(現在の迫撃砲)製造を依頼する。麻布の射場でこれを試射する。

・1689年  清の康熙(こうき)帝(てい)、ベルギー人宣教師に命じ大青銅砲を造らす。

・18世紀後半  英国で産業革命がはじまる。

・1814年  衝撃で火薬に点火する管打ち式(percussion lock)の原理が発明される。

・1819年  米国でコルト連発銃の原理が発明される。

・1838年  米国でペッパーボックス・ピストル(pepper box pistol、連射式リボルバー拳銃)の原理が発明される。

・1843年  英国人Henry Deringer が手のひらサイズの小型ピストルを発明する。米国リンカーン大統領はこの銃で暗殺された。

・1847年  ソブレーロ(イタリア)がニトログリセリン火薬を発明。

・1862年  リンカーン、スペンサー式連発銃(銃床内に管状弾倉を内蔵)を採用して南軍を破る。

・1866年  米軍、ガットリング銃(機関銃)を採用する。

・1866年  坂本竜馬、伏見の寺田屋において西洋式ピストルで幕府役人に応戦する。

・1868年  官軍、新兵器で幕府軍を破る。

・1871年  明治新政府、岩倉(いわくら)具(とも)視(み)を団長として欧米に視察団を派遣する。

 

この年表から読み取れる注目点を述べる。

① 種子島に火縄銃が伝わってから、一年後には日本人はその量産化に成功している。即ち、当時これを可能にする技術が既に日本にあったということである。ヨーロッパに比較しても、この段階では技術的にそんなに遅れているということはなかったのである。その証拠に秀吉は朝鮮出兵で敗れたとはいえ、海の向こうで明・朝鮮連合軍と互角に戦っている。またポルトガル人宣教師は、信長のことなどをこと細かく本国に報告している。ポルトガルやスペインは、当然隙(すき)あらば南米や他のアジア・アフリカ地域と同様に、日本の植民地化を狙っていただろう。

② 同じ頃、スペイン人とポルトガル人は火縄銃と少数の騎馬隊で世界を分割・植民地化している。

③ 古代中国の四大発明(羅針盤、・紙・印刷・火薬)は、本家の中国では蒙古軍が東欧に進出したのを最後に衰退し始め、ヨーロッパ諸国が世界の表舞台に登場する。

④ ヨーロッパでの近代科学の誕生と産業革命、近代社会の確立によってアジア諸国は火器の進歩においても大きく遅れることになる。

⑤ 日本は鎖国と幕府の厳しい統制下で、江戸時代を通じて基本的に火縄銃の技術進歩は見られず、やがて開国を迎える。

 インカ帝国が数百人のスペイン人に簡単に滅ぼされた理由

越中屋弥左衛門は南米で栄えていた文明が、わずか数百人の鉄砲と馬を持ったスペイン人に滅ぼされた理由に強い関心を持って来た。

もともとアメリカ大陸の先住民は蒙古系でシベリアを経由してアラスカを渡り、9000年~5000年前にアメリカ大陸に定着したとされている。ものの本にはその文化は思ったより高度だったと書かれている。しかし、その高度な文明が何故に、かくも簡単に滅んだのか。いくら鉄砲と馬で武装した兵隊といっても数百人なら、数千人が一斉に防備を固めて突撃すれば勝てなかったのであろうか。

弥左衛門は以前、名古屋市博物館で開催されたラテン・アメリカ考古歴史展を見に行った。その時、強い印象を持ったのは、「高度な文明」というけれど文字を持たなかったこと、そして数字なども含めて縄の結び方で言葉を表現していた。その縄文字が展示してあった。情報伝達が不十分だったので、大きな組織で機敏に応戦できなかったのであろう。

調べてみると3世紀頃、中央アメリカのマヤ文明は約850の象形文字を持っていたという。この文字は現在でもあまり解読されていないし、3世紀以後の発展はどうなったのかあまり知られていない。もちろん土器は固有のきれいなものがあった。金属加工技術に関しては滅亡するまで金(ゴールド)と青銅レベルであった。肝心の鉄を持たなかった。金や青銅では、きれいな器や装飾品は造れるが銃剣向きではない。青銅は脆く、金は強度が無い。これでは軽くて鋭利な武器は作れない。古代中国での鉄の普及と戦闘の歴史をみればこのことは明白である。また部族間の争いも絶えなかったという。

スペイン人は鉄製の刀剣と火縄銃、アメリカ大陸にいなかった大きな動物である馬、そして、部族対立をあおる計略を用いて極めて少数でこの文明を滅ぼし、大量の金を奪い母国に持ち返っている。ポルトガルもアフリカで部族対立をあおり、彼らに火縄銃を高値で売りつけ、そして勝者から敗者の部族の者を奴隷として買い付け、アメリカ大陸に送り込んでいる。これが奴隷貿易の時代であった。

火縄銃の製造技術

図1、図2に火縄銃の構造と各部の名称を示す。火縄銃の性能のポイントは銃身と尾栓ネジだと言われている。これを作るのが難しかったという。日本人は昔から、鎧・兜・刀剣などの武器は装飾的にも優れたものをつくる技術をもっていた。まっすぐで、きちんとした断面円形状を持つ銃身は、マスターの鉄芯棒に鉄板を巻きつけて鍛造して造った。

巻きつける鉄板は強度を上げるため、薄いものを複数枚巻きつけたものもあるという。そして、尾栓は爆発時の高圧に耐え、且つ詰まった火薬や弾丸のカスを掃除するために取り外しできるネジ構造にする必要があった。これをポルトガル人から習得するのが一番難しかったという。当時から雌ネジ、雄ネジを切るダイスが存在していたという。由来・履歴が判っていて、壊してもよいあまり貴重でない火縄銃を分解・切断してその金属組織を調べるという研究もなされている。

鉛製実弾は、複数個同時に造れるような鋳型に鋳込んで作った。弥左衛門は遺跡から発掘された銃弾の実物を見たが、大きいのはパチンコ玉ぐらいであった。しかし、当然とても真球とは言えず、表面粗度も荒く、造りは雑であった。材質が鉛で軟らかいから、火縄銃レベルならこれで役に立ったのであろう。

戦国時代には戦争で籠城となると、この鉛球を鋳込むことと、打ち取った敵の武将の首を洗って化粧をするのが女衆の任務だったという。

火縄銃演武

この演武は昨年の西尾まつりで行なわれたものである。

いくら本を読んでも、こういうものは自分の五感で感じないと本当にわからない。今まで火縄銃そのものと鉛弾は見たことはあったが、火薬を使っての実際の発射音は聞いたことはなかったので、大いに参考になった。

しかし、この演武では当然実弾は込められていないので空砲である。それでも音は相当なものであった。スペイン人に征服された南米の先住民はこの音に驚いたというが納得できる。更に実弾だと音はどうなるかわからないが、少なくとも肩への反動はまったく違うだろう。警察の許可を得て行った実射実験のデータが文献に掲載されていたが、板などは軽く打ち抜くという。

        整列してかまえ!

 

入場準備中。のぼりの前に立って金色の円錐状の兜をかぶっているのが指揮者の鉄砲隊長である。

 

入場前に整列中。火縄銃を含めて甲冑などを揃えるとなると結構贅沢な趣味である。

 

本物の鎧兜は、子供の憧れである。

 

火縄に点火して準備中。

 

演武が終わって、観客に見せるために並べられた火縄銃。短筒もある。

おわりに

火縄銃は最初の実戦的な銃であった。これが日本に伝わると、一年後には国内で量産化されたことは、日本の技術水準はヨーロッパと比較してもそんなに遅れていなかったことを示している。しかし、江戸時代の鎖国政策によって、その後の技術進歩は阻まれ、やがて黒船来航を迎える。大砲を装備した蒸気船に驚き、幕末の混乱を乗り越えて、日本は明治維新を迎えることになる。そして、明治維新政府は、西欧からその先進的文明を学ぶために欧米に政府最高幹部を団長とする使節団を派遣することになる。

 

参考文献
  • 特別展 日本の鉄炮 ―吉岡コレクションの全貌にせまる― 大阪城天守閣(大阪市経済局)(1983年3月)
  • 火縄銃の伝来と技術 佐々木稔 編、吉川弘文館(2003年4月)
  • 鉄と鋼 97(2011)No.11、26-31 「江戸時代後期に製作された火縄銃の特異組織と製法」、久保田俊輔 et. al.
  • 日本金属学会誌 第76巻 8号(2012年)489-495 「江戸元禄時代に国友鉄砲鍛冶により製造された火縄銃の金属組織」 田中真奈子 et.al.
  • 大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ 、ルシデ・デ・ソウザ、岡 美穂子 著、中央公論新社(2017年4月)
  • コンサイス科学年表、湯浅光朝 編著、三省堂(1988年3月)

(記2020年5月12日)

 

越中屋弥左衛門がおすすめする本やグッズ

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました