このたび越中屋弥左衛門の長年の思いが結実して、『今日の中国情勢の底流がわかる「夜と謀略の皇帝」実像毛沢東年譜』の発刊に至りました。
そこで今回は本著書について、ご紹介させていただきたいと思います。
毛沢東の実像から現在の中国の本質を理解する一冊
今回出版した著書は、毛沢東という一人の人物の実像を経年的に詳細に追っていく内容になっています。それにより、現在の中国という国の本質がどのように形成されたかをより根本的に理解することを目的としています。
これまで毛沢東関連書は山ほど出版されてきましたが、中国革命に関する資料は毛沢東賛美に満ち溢れており、どの本もありきたりの中国側の解説書の要約になっていて、毛沢東の実像が見えないことに疑問の念を抱いてきました。そこで、弥左衛門は中国という国が強大な力を持つようになってきたことで毛沢東のことを飾らず書いた著作が絶対に必要だという思いを強く持つようになあり、著者自身で毛沢東の詳細な年譜を完成したいと思うようになりました。
弥左衛門が著作をするなかで、実際に毛沢東の実像に迫った結果から浮かび上がってきた毛沢東の人間像は、イメージしていたものより残虐で、ずるがしこく、同志を平気で謀略でもって粛清し、そして自分の権力維持に執着する「夜と謀略の皇帝」の姿であった。それは、日本の明治維新や戦国時代、そして西洋の歴史に登場する数々の戦乱の世の英雄的人物とは異質で、「スターリン用語を口にする現代中国の皇帝」という姿でした。
このような問題意識と経過から出来上がった本著作の特徴は以下の通りです。
①毛沢東の毎日の活動と生活を年表にし可能な限り詳細に追った。そして、その活動の意味するところが理解しやすいように努力した。
②ただの年表形式だと、歴史教科書の補助資料のように事実の羅列で退屈になるので、できるだけ興味をもって読んでもらえるような説明を加えた。
③中国の人名や地名は、いちいち辞書で調べる必要がないように日本人になじみのないものにはフリガナをつけた。
④毛沢東の生涯にとって、切っても切れない関係があるソ連、日本、北朝鮮との関連は特に重視した。特に日本人に関しては戦前・戦中の中国と中国共産党との関係を特に重視した。
⑤毛沢東亡き後も、「功績七分、誤り三分」と毛沢東を評価した鄧小平(とうしょうへい)路線は基本的に継続されている。そこで、現在の中国、北朝鮮などの情勢をその背景も含めて理解できるように配慮した。
以上5つの特徴で本著作は形成されています。毛沢東の活動を時系列的に並べて、詳細にかつ分かりやすいように努力をしました。
チラ見:目次と一部本文を掲載します。ご興味のある方はご覧ください。
『今日の中国情勢の底流がわかる「夜と謀略の皇帝」実像毛沢東年譜』目次紹介
目次については以下となります。毛沢東の人生を節目に分けて分割し、どのようなことを行ったのかを経年的に詳細に記述しました。
はじめに
凡例
第1部 毛沢東略歴
第2部 毛沢東詳細年表
【第1期 幼少期 1893~1910】
【第2期 青年時代 1911~1920】
【第3期 入党、井岡山(せいこうざん)・瑞(ずい)金(きん)時代1921~1934】
【第4期 長征、権力掌握 1935~1936】
【第5期 延安時代 1937~1945】
【第6期 大戦終了と内戦勝利・新中国建国 1946~1949】
【第7期 大躍進運動の失敗と失脚 1950~1959】
【第8期 権力奪還と文化大革命発動、後継者・林彪 1960~1974】
【第9期 文化大革命路線の破綻と林彪・四人組批判 1972~1974】
【第10期 第1次天安門事件と毛沢東の死 1975~1976】
【第11期 華国鋒時代と四人組裁判 1977~1981】
第3部 参考資料
登場する人物・地名・事項
一部本文:1967年 毛沢東74歳 文化大革命のページを抜粋
○1967(S42、74歳)
・この年のはじめから二年余り、林彪の腹心である広州軍区指令員の黄永(こうえい)勝(しょう)上将(林彪の妻・葉群の情夫としても有名)が上京し、党中央と国務院所在地である中南海軍事管制委員会主任となる。党・政府幹部たちは、毛沢東と林彪の軍隊に包囲されて、まるで袋のネズミのような生活を送らされ毛沢東に抵抗できなくなる。
・1.1. 元旦の夜明けに、毛沢東は中南海の職員を使って国家主席・劉少奇の自宅内部に巨大な文字で侮辱的な言葉を書きなぐらせる。また、この中南海の劉少奇の住居の壁に「中国のフルシチョフ・劉少奇を打倒せよ!」というスローガンが貼られる。この劉少奇の自宅は牢獄に改装され、監禁された。病気を診察に来た医者にも痛めつけられた。この特別医師は劉少奇を診る時、まず「打倒中国のフルシチョフ」「劉少奇が投降しないなら消えろ」等のスローガンを叫び、聴診器で胸部を殴打したという。何カ月かの間、劉少奇の四肢を寝台の枠に縛り付け、話すことも動くこともできない状態にした。1969年、瀕死の劉少奇は河南省開封の独房に送られ、それから27日目に特別医師が薬を停止し死亡した。すぐに火葬され、死者の名前は「劉(りゅう)衛(えい)黄(こう)」、職業は「無職」と記録された。これが現役の国家主席で、長い間共に中国革命を戦ってきた同志に対する毛沢東のやり方であった。今でも劉少奇に関する公式記録はすべて「病死」である。同じく元旦には、天安門広場で大学生による「劉少奇・鄧小平批判」の集会が開かれる。鄧小平は劉少奇に次ぐ「第二の走資派」というレッテルを貼られる
・1.~2. (日本)北京の紅衛兵の壁新聞などが日本共産党と宮本書記長への悪罵を開始する。
・1.5. 張(ちょう)春(しゅん)橋(きょう)・姚(よう)文元(ぶんげん)・王(おう)洪(こう)文(ぶん)(中央文革小組の江青派)ら「上海造反派」が上海で
「打倒市委員会大会」を開催する。既存の上海市党委・政府からの奪権を宣言する(1月革命)。
・1.6. 中央文革小組の許可無く、精華大学学生・蒯(かい)大(だい)富(ふ)のグループが劉少奇の十代の娘・平(へい)
平(へい)を誘拐する。嘘の電話をかけて劉少奇夫妻を病院におびき出す。しかし、すぐに兵隊がやって来て、中止させられる。蒯大富はその場で電話口に呼び出され、周恩来と江青から「王光美を解放しなさい。殴打も侮辱もやってはいけない。わかったか?」と指示される。劉少奇の妻・王光美を痛めつけてはいけないという周恩来の命令は、蒯大富がやったことが中央文革小組の許可を得ていない勝手な行動で、毛沢東の迫害スケジュールと嚙み合わなかったからである。この後、王光美は「毛沢東の迫害スケジュール」で正式に糾弾大会の壇上に引きずり出されることになる。
・1.8. 江青など革命小組側の支配下に入った新聞と放送は、紅衛兵に対して暴力による奪権号令を呼びかける。
・1.9. 毛沢東、上海「造反派」の奪権闘争を「これはひとつの階級が他の階級を覆した大革命である」「上海の革命勢力が立ち上がった。全国に希望がある」と称賛する。同日、毛沢東の指示により「上海全市の人民に告げる書」を『人民日報』に転載する。
・1.11. 中共中央・国務院・中央軍事委・中央文革小組が張春橋・姚文元・王洪文ら上海市「造反派」が行った上海市諸機関の奪権闘争に祝電を打つ。
・1.11. 中共中央、「経済主義反対に関する通知」を発表する。内容は、①賃金をあげてはならない、②農村に下放し、農業生産に従事している大衆、「上山下郷」(都市から山村・農村の辺境地域に行き開発に従事する)中の知識青年は、引き続き農業生産に従事すべきであるなどというものであった。
・1.12. 中南海の「造反派」が劉少奇の家に押し入り、国家主席・劉少奇にリンチを行う。
・1.13. 中共中央・国務院が「プロレタリア文化大革命のなかで公安活動を強化することについての若干の規定」を公布する。「偉大な指導者毛主席とその戦友林彪同志を攻撃・侮辱するものはすべて反革命として処罰する」と規定する。また「黒五類」「黒七類」出身者など出身系統の悪い者たちが外部に出て交流し、革命大衆組織に入ることを禁止する。
・1.13.深夜. 毛沢東は、今までさんざん痛めつけてきた劉少奇を自分の居室である人民大会堂「118」号室に呼びつけて差し向かいで話をする。強情もほどほどにして、自分にひれ伏しなさいと説得した。劉少奇は毛沢東に屈服することを拒み、それまで何度も繰り返してきた希望を、今一度口にした。それはこの度の路線問題の責任は自分にあるので、国家主席・党中央政治局常務委員・毛沢東選集編集員会主任の職務を辞任して、妻子と共に延安あるいは故郷で一農民として働かして欲しいということである。そして、文化大革命を中止し、自分一人を罰して欲しい、他の者たちを罰しないで欲しいと要望した。これに対して、毛沢東は沈思黙考して語らず、ひたすらタバコを吸うばかりであった。そして、あたりさわりのない答えでこれをかわし、「健康に気をつけたまえ」とだけ言って、二冊の書物の名前をあげて、真剣に読むよう勧めた。劉少奇が帰宅後、息子たちに語ったところによると、「主席はわたしの誤りを批判しなかったよ。丁寧なあつかいだった。しっかり学習して、からだを大事にするようにと、おっしゃたよ。」と本人も安心したようであった。毛沢東が劉少奇に真剣に読むよう勧めた本とは、エルンスト・ヘッケルの『機械的唯物主義』とド・ラ・メトリの『人間機械論』であった(『消された国家主席劉少奇』ではドイツの動物学者ハイゲルの『機械唯物主義』とフランス百科全書派のディドロの『ロボット』だったと紹介し、訳者注で「不詳」となっている)。筆者は、このような状況下で何故、毛沢東が国家主席である劉少奇に、このような書生的書物を「真剣に」読むようすすめたのかどうしても理解できない。いずれの著作も人間の身体を「機械的唯物論」で説明しようとした歴史的名著ではある。劉少奇の期待に反して、この深夜の両者の会談は、毛沢東の好むところのペテン師的芝居であるこがすぐに判明することになる。林彪の軍事力に依拠し、国家主席を逮捕・監禁し、死に追いやった。この日の会談の様子を想像するに、何か毛沢東の正気でない性格が疑われる。
・1.16.深夜12時過ぎ 周恩来が劉少奇の自宅に電話をかけてきて妻の王光美に、「光美よ、試練に耐えなさい」を励ます。王光美は、「総理、あなたはほんとうにいい人です」と感謝する。
・1.18. 劉少奇の自宅電話機が撤去される。劉少奇夫妻は自宅軟禁状態に置かれ、家中の壁は二人を侮辱する壁新聞やスローガンで覆われた。鄧小平も自宅軟禁状態におかれ、批闘会に引きずり出された。しかし、劉少奇ほどの暴力的扱いは受けなかった。毛沢東は、政敵に対する処罰を一人一人細かく加減して指示していた。毛沢東の鄧小平に対する憎しみは、劉少奇に対する憎悪ほど大きくなかったので、鄧小平に対しては「批判されなければならない—-しかし、劉少奇とは区別せよ」と命令した。鄧小平は妻と引き離されなかった。毛沢東の元秘書で民主改革派の李鋭によると、鄧小平は元来毛沢東のお気に入りの三人の後継者候補の一人(他の二人は林彪と既に粛清されていた高崗)であったという。だから、林彪が航空機事故で死んだ後、鄧小平が幽閉先から復職嘆願書を毛沢東に書くと、毛沢東は鄧小平が再び党中央で働くことを認めている。
・1.18. (日本)日中友好協会(正統)本部代表と中日友好協会とが会談メモを発表する。毛沢東思想と文化大革命を称賛する。
・1.19. 中共中央軍事委が、北京の京西賓館で軍隊内での「四大」(大いに意見を出し、大いに論議し、民衆の間で議論を巻き起こす)をやるべきかどうかについて議論する。葉(よう)剣(けん)英(えい)・聶栄臻(じょうえいしん)・
徐(じょ)向前(こうぜん)ら軍幹部は「四大」のようなことをやるべきではないと主張する。後に江青らに「京西賓館事件」として非難される。
・1. 毛沢東、「造反派」に対して党幹部からの「奪権」を呼びかける。中国全土が大混乱の様相を呈す。「武闘」が突発し、好戦的な者の中には銃を持つ者も現れた。党も政府機関も麻痺状態に陥った。工場の生産は急落した。交通機関も停止しつつあった。林彪と江青が「造反派」を率いていた。「何もかもぶっ倒せ!」「内乱をおこせ!」が彼らのスローガンだった。工場や学校は二分されていた。「戦闘的な造反派」が党委員会への攻撃を先導し、一方、従来の党組織・行政機関を握る党支持者・「保守派」も激しく反撃した。地方党委員会は、しばしば手が付けられないまでに分裂した。どこでも党の幹部たちは権力を手に入れようと反目しあった。「保守派」がまだ優勢であった。各地、各機関の党委員会は何年にもわたって非常に大きな権力を集めていたから、そう簡単には倒れなかった。高邁なイデオロギーや原則などは、ほとんど闘争には関係になかった。毛沢東の目的は、ただ従来の党組織を破壊し、自分の思うままに動く党組織をつくりたかっただけだった。追放された幹部の代替要員は、林彪が支配する軍から主に補充された。この後数年の間に、総計で280万人の軍人が新しく管理職に就き、このうち5万人は党の中・上級幹部の職を引き継いだ。新しく就任した軍人管理職の下には、従来の仕事がスムースに処理できるよう「造反派」やベテランの党幹部が補佐に就いた。新執行体制支える人材を軍から大量に供給したため、本業の国防任務がおろそかになった。この新しい執行体制の役割のひとつは、粛清された旧幹部について、たとえ消極的にでも毛沢東の命令に抵抗した前歴があるかどうかを審査することだった。職を追われた何百万という旧幹部の一人一人に「専案組」(専門調査班)がつけられ、その人の過去を事細かに調べた。頂点にあるのは「中央専案組」で組長は周恩来、副組長は康生、事務局は軍の中級士官だった。中央専案組は被疑者を逮捕し、尋問し、拷問する権限を与えられていた。逮捕状、あるいは死刑を含む量刑宣告書の多くは周恩来が署名したものだった。中央専案組は、毛沢東が個人的に指名した人間の審査にあたった。毛沢東は特に最高幹部の中にソ連と通じて自分の失脚を狙っている者がいるかどうかに関心を持っていたので、軍人の中で最も厳しく査問を受けたのはソ連国防相から毛沢東打倒を耳打ちされた賀(が)龍(りゅう)元帥だった。賀龍の部下だった軍人も全員が巻き添えになり、賀龍は1969年に獄死した。
・1.21. 毛沢東は、周恩来・林彪・陳伯達の三人に直接指示して、「左派支援」という名目で、すべての機関、企業、工場に人民解放軍を駐在させることにする。革命小組司令部は人民解放軍に、「革命的大衆を助けよ」と呼びかける。文革の主役は紅衛兵から解放軍へと交代していく。江青・林彪
コンビの戦略であった。このコンビを作り、裏で操ったのはもちろん毛沢東であった。
・1.23. 中共中央・国務院・中央軍事委・中央文革小組が「人民解放軍は断固として革命左派を支持することに関する決定」を通達する。軍に対して文革全面介入を命令したのである。
・1.24. (日本)日本共産党機関紙『赤旗』が、「紅衛兵の不当な非難に答える」を発表する。日中両共産党共同コミュニケが毛沢東によって破棄されたいきさつが初めて明らかにする。ここで、今まで日本のマスコミの北京特派委員が送ってきていた文革の記事の本質が明らかになる。即ち、大躍進運動などの失敗によって指導権を失った毛沢東が、党・政府組織を破壊して、再びその個人独裁体制を確立しようとした権力闘争だということである。大学入学直後の筆者は、この指摘に長年のもやもやが解消されたことを今でも鮮明に記憶している。
・1.27. 高級幹部の中から初めて拷問による死者が出る。犠牲者は煤炭工業部(省に相当)の部長(閣僚に相当)だった。この人物は「大躍進」に異議を唱え、毛沢東にも批判的な発言をしたため毛沢東から憎まれていた。この部長は動員された群衆の前に引きずり出され、両腕をきつく後ろにねじ上げられた「ジェット式」の姿勢で糾弾され、残虐な暴行を受けた。氷点下17℃の寒さの日には、全身血まみれのまま上半身裸でベンチに押し上げられ、暴徒たちが寄って、たかって、小刀で切り付けた。暴行は二週間に及び、最後には巨大な鉄製ストーブを首に掛けられ、重みで頭がコンクリートの床についたところにベルトの真鍮製バックルが振り落とされた。こうした残虐行為の一部始終をカメラマンが記録し、その写真が周恩来の元に届けられた。陰惨な批闘会の場面もフイルムに撮影され、毛沢東はこれを別荘で再生して見た。こうした映像は編集され、テレビでも放映された。こういう残虐な仕返し的行為を見物するのは、若い時からの毛沢東の悪趣味であった。
・1.28. 中共中央軍事委が毛沢東の承認の下に、「真のプロレタリア革命派を支持し、右派に反対し、証拠上確実な反革命組織と反革命分子に対して断固たる独裁の措置を取る」とするなどの八ヵ条の命令を出す(軍委八条)。文革を強行するために、軍を毛沢東の意のままに動かすための命令であった。しかし、毛沢東と林彪は、済南、南京、福州(福建省省都)、広州、昆明、新彊の六軍区だけを「軍委八条」の枠外に置く新号令を発した。その理由は「帝国主義と修正主義の敵に対する防衛戦線を除外した」というのだが、済南や南京が防衛前線であるわけがなかった。これらの除外された軍区では内戦が起こっていたと思われる。
・1.下旬. 毛沢東、造反派の「左派」を支援すべく人民解放軍の協力を求める。軍の仕事は「左派」の人民大衆、産業、農業を支援し、あらゆる行政官庁の軍隊化をはかり、高校や大学の全学生に軍隊訓練を課すことであった。数カ月たらずのうちに、約二百万の兵士たちが「左派」支援のために導入された。北京では毛沢東は汪東興と自分の親衛隊である党中央警衛団に支援を仰いだ。党中央警衛団は人民解放軍の指揮系統外にあり、毛沢東直轄下にあった。毛沢東と党中央警衛団長・汪東興の間に直通のホットラインがあり、国防相・林彪や各軍管区司令官のややこしい正式の手続きを通さずに直接命令を出すことが出来た。
・1・下旬 日本との貿易業務の中国側窓口である中国国際貿易促進委員会主席の南漢宸(なんかんしん)が「文革派」による「自己批判」強要を拒否し自殺する。南漢宸は延安時代に江青の経歴に異議を唱え、それが元で江青からにらまれていた。
・1. (北朝鮮)国外での秘密工作を担当する康生が、アルバニア代表団に、「金日成を打倒すべきだ、そうすれば朝鮮の状況は変わる」と語る。北朝鮮の金日成は、中国が「韓国に攻め入れろ。ソ連と仲良くするな」などと北朝鮮の外交に干渉し、挙句の果てに中朝国境に人民解放軍を配置して脅迫することに大きな反感を抱いていた。更に、お笑いものであるが、紅衛兵は自分の親分の贅沢を棚にあげて、「金日成はあちこちに別荘をもち、贅沢な暮らしをしている」と批判していた。
・1.~2. (日本)北京の紅衛兵の壁新聞などが日本共産党と宮本顕治書記長への非難を開始する。
・1.31. 黒竜(こくりゅう)江(こう)省紅色造反者革命委員会が設立される。『人民日報』社説が、臨時権力機構として賞賛する。これは中共中央が、革命的大衆組織の責任者・軍の責任者・機関の革命的幹部の三者による「三結合」の臨時権力機構として最初に認めた革命委員会であった。
以上、1967年1月のページを抜粋しました。
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