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【越中屋弥左衛門のぼっち旅 国内編(お城・遺跡・名所・旧跡巡り紹介)】第14話 久しぶりの名古屋ぶらり旅 大須・中日ビル・鶴舞公園・名古屋工業大学(2025年末)

ブラブラ日帰り旅日記-お城・遺跡・名所・旧跡巡り紹介-

越中屋弥左衛門のぼっち旅(国内編)

<第14話>
久しぶりの名古屋ぶらり旅(2025年末)

弥左衛門は会社に勤めていた現役時代は、いつも何らかの語学講座に通っていたので毎週名古屋に通っていた。そのため、当時は名古屋も見飽きたという感じであった。

しかし、最近、新しい中日ビルが完成したり、鶴舞公園内の市公会堂がリニューアルされたり、また、この公園に隣接した旧愛知県勤労会館跡地に「日本最大のスタートアップ支援拠点」と銘打った「STATION Ai(ステーショ・エーアイ)」という建物も完成したという報道を耳にして、一度どんなものか見たいなと思っていた。

また、ついでに鶴舞公園に隣接する母校・名古屋工業大学構内も久しぶりにぶらついてみた。更に、これもまたコロナのため、久しぶりになるが過去に数回訪れている大須の骨董市も2025年12月28日の年末に見に行った。大須繁華街は弥左衛門の大変好きなスポットのひとつである。

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<スポット1>大須観音の骨董市

大須では毎月18日と28日に骨董市が開かれている。しかし、コロナでだいぶん長い期間開催されていなかった。弥左衛門は、久しぶりにどんな賑わいか、見るために年末の12月28日に会場の大須観音を訪れた。

にぎわいをみせる年末の大須観音

この日は年末なので人出は多い

昔と違って最近は外国人も結構多い

仁王門通りの大きい飾りと“中駒産業”の宣伝看板

画面右上の仁王門の宣伝飾りはなかなか大須らしいなと思うが、画面正面真上にそびえる中駒産業の看板はいただけない。この企業は中部の注文住宅企業らしいが、テレビの宣伝でも社長の出たがり屋振りが目立つ。

弥左衛門は、ひととおりぶらぶら全体を見渡した後、以下の写真雑誌と古い教科書を買った。

これらの雑誌は、古本のネット販売や神田古本街でもなかなか見つけるのは難しいものだと思ったからである。せっかくなので表紙だけでなく、中身も弥左衛門の独断と偏見で面白いと思った部分をチラ見してもらおう。

終戦直後のアサヒグラフ

アサヒグラフは弥左衛門もその名前はよく知っていたが、「最近見ないな」と思っていた。同じ朝日新聞社発行の週刊誌である「週刊朝日」や「朝日ジャーナル」は、学生時代から時たま読んでいた。

しかし、アサヒグラフは名前を知っていても店頭で見るくらいだったので、その後の運命は時代の流れと共にどうなったのか詳しくは知らなかった。

そこで、その歴史をちょっと調べてみると1923年(大正12年)から2000年(平成12年)まで発行されていた週刊グラフ誌(画報誌)だという。日本における写真雑誌の草分け的存在のひとつといえる。

骨董店では他の品物と同時に何冊もたくさん戦後発行のアサヒグラフが置いてあったが、そのうち面白そうな1946年11月25日号~1948年6月2日号までのうち4冊を買った。上がその4冊の表紙写真である。

表紙はきれいに装った美人女性モデルであるが、中身は相当リアルに敗戦直後の世相を反映している。弥左衛門は1948年5月9日生まれであるが、自分の誕生日に近い1948年6月2日号もあったので即決で買った。

弥左衛門は自分が生まれた日付近の新聞もだいぶん以前にコピーして持っている。参考までにこのグラフ誌の値段の推移を示すと、

1946年(昭和21年)11月25日号 (定価2円)
1946年(昭和21年)12月15日号 (定価3円)
1947年(昭和22年)4月1日号  (定価7円)
1948年(昭和23年)6月2日号  (定価20円)

と猛烈なインフレ現象を示している。目が覚めると昨日より値段がどれだけ上がっ ているのか心配しなければならない時代であったことがわかる。

アサヒグラフ1946年11月25日号10-11頁

警官によるヤミ米摘発の様子が報道されている。生きるか死ぬかの米不足の様子がわかる。今の「令和の米騒動」とはレベルが違う。

庶民の米買い出しの涙ぐましい努力が写真で見られる。今までも、いろんな本などでは読んで知っていたが、この写真記事を読むと家族を食べさせていくということが本当に大変な時代だったことが実感される。

参考までに一番左の写真は、「私は妊婦です」と言って、警察に言い訳をしたという老婆の写真である。

ちなみに、敗戦後昭和20年時点での公定とヤミの値段を比較してみると、コメ1升(公定53銭、ヤミ70円)、砂糖1㎏(公定1円、ヤミ270円)、卵1個(公定29銭、ヤミ3.4 円)である。今の感覚で考えるとメチャクチャの差である。

アサヒグラフ1946年11月25日号4-5頁

飯が十分食えない中でも、どういう風に当時の国民が憲法公布を祝賀したかがよくわかる。

アサヒグラフ1946年12月15日号14-15頁

戦争が終わってもまだ戦地や外国から帰って来ない人や、行方不明者が多かった。

そして、戦争孤児も街頭に多くいた時代である。多くの国民は家族・親類・知人などの消息を気にしていたので、このような「文士遺児告知板」という記事が書かれたのであろう。

有島武郎の長男・森雅之氏(頁中央の写真、マイクの前の男性で俳優)、島崎藤村の次男・島崎蓊助氏(下段・右から二つ目の写真、男性で画家)、芥川龍之介の長男・芥川比呂志氏(下段・最左の写真、中央で俳優)、徳田秋声の長男・徳田一穂氏(最上・中央の写真、ダンスを踊っている人物で小説家)などが紹介されている。

アサヒグラフ1948年6月2日号4-5頁

これは戦後の上野駅界隈の様子を示している。

弥左衛門は表題にある「ノガミ」という言葉がわからなかったので、ネットで検索したら「上野」の隠語だということがわかった。

よく見たら、中央の文字の説明部分を読むと、「ノガミ―東京の北玄関、上野駅界隈の終戦後の俗称だ」とあった。他に新宿は「ジュク」、有楽町は「ラクチョウ」と呼ばれたという。

日本人は昔からこういう隠語言葉が好きだ。このページを見ると、当時の生きるための懸命な日本人の姿がみえる。

写真の最下欄・最右の女性は子供に地下道で母乳を与えている。この写真の説明には次のようにある。「垢(あか)によごれた体でも乳首だけは光っている」とある。

中段・最左の写真説明には「上野公園の階段下は、午後11時ともなれば正に肉体の市」とある。このページには終戦直後に流行った隠語がたくさん出てくる。

ドヤ(旅館)、タタキ(強盗)、ノビ(窃盗)、ショバヤ(汽車の順番取り)、カチアゲ(恐喝)、チャリンコ(子供のスリ)、オキビキ(荷物の持ち逃げ)、バイニン(贓品(ぞうひん)故買(こばい)人)、モクヤ(タバコ拾い)、田舎廻り(集団乞食)などである。これらの中には今でも使われているものがある一方、少し意味が変わったものもある。いずれにしても世相を反映している用語である。

ここには出てこないが「パンパン」という言葉はもっと有名であった。

弥左衛門は昭和23年生まれであるが、「パンパン(街頭で主に米軍兵士を相手に商売する売春婦)」という言葉は子供の時から知っていた。大人たちが頻繁に使っていたのであろう。弥左衛門の田舎では、女の子がヤンチャで下品なことをすると「パンパンみたいなことするな!」と叱られた。

アサヒグラフ1948年6月2日号6-7頁

前頁の「ノガミに生くる人々」の続きの写真である。

最上段・最右の写真の説明には、「この老人、地下道の十字路に座ったまま動かない、カメラを向けても、誰が通っても、まばたき一つしなかった」とある。

また中段・中央の写真の写真説明は次のとおりである。「新聞にせよ、キャンディーにせよ駅構内は鉄道弘済会の独占なので、その他の売り子は駅員に追い払われる。逃げる方は駅員の動きにネズミ以上に敏感である」

中段・最左の写真の写真説明は次のとおりである。「夜となく昼となく、地下道では贓品(ぞうひん)故買(こばい)がおこなわれる。バイニンはすべて地下道の外に住み、ここを商い場所にしている」

 

明治7年1月発行の小学校用算数の教科書表紙

 

教科書の1ページ目

教科書の割り算の練習ページ

これは明治7年1月発行の小学生用算数の教科書である。

持ち主は今の愛知県西尾市立西野町小学校に明治23年当時に在籍した生徒とある。多分、この生徒の家の人が蔵か納屋にあったものを一括して骨董屋に売ったものの一部だと思われる。

弥左衛門はこういう戦前の教科書を見るのが好きである。この算数の教科書では、いろんな具体例で加減乗除を学ぶように配慮されていて、著者は米国人の「代威斯」とある。たぶん「デービス」と読むのであろう。

すなわち翻訳本なのである。そして静岡の山田正一という人が訳述したとある。これは小学生用算数シリーズの「筆算教授本巻二」なので、何巻物なのかわからないけれど、明治の小学生はこのシリーズもので算数を学んだのである。

割り算などの例題が列挙されているが、それを見ると、使われている漢字は今の我々からみると小学生には少し難しいのではないかと思われる。江戸時代の寺子屋で使われた初等教育用教科書であるいわゆる「往来物」の算術書と比較してみると、例題はよく似た実用的なものが多い。

しかし、「往来物」ではそろばんで問題を解くという場合が多いが、それに対してこの教科書は「筆算教授本」なので西洋式筆算を教えている。そろばんは計算の論理や数学演算を行う場合の一般性に欠けているので、筆算を重視しているように思われる。明治20年頃はまだ就学率が低く、小学校の6年間でもまともに学校に行って卒業した者は少ないと思う。

文部省統計を調べてみたところ、明治18年で就学率は男65.8%、女32.1%、平均49.6%である。また一応、就学したことになっていても、実際には授業に出ていない生徒も多数いた。日本人のほとんどが義務教育の小学校まで行くようになったのは明治末である。

週刊写真報知第1巻第2号表紙・大正12年10月14日発行

甘粕(あまかす)事件(じけん)のことが載っていた大正12年(1923年)10月14日発行の「週刊写真報知」なので迷わず買った。

報知新聞社が発行を開始した直後の2号である。「アサヒグラフ」も大正12年に発行開始なので、この年は新聞社がこのような写真報道誌発行で競い合っていたのであろう。

報知新聞は明治5年(1872年)前島密らが創刊した戦前の名門の日刊新聞である。しかし、その後は経営危機で読売新聞に吸収されている。

この「週刊写真報知10月14日号」発行一カ月前の9月1日の正午にあの関東大震災が発生している。その混乱ぶりがリアルに伝わってくる。教科書などに書かれているように、この時有名な朝鮮人虐殺事件・亀戸事件、そしてここに書かれている甘粕事件が発生した。

この写真報知一面は甘粕大尉が獄中から部下の憲兵隊員たちに送った「決別の辞」である。この事件では無政府主義者と言われた大杉栄らを甘粕大尉が憲兵隊司令部で殺害したことは当然知っていたが、甘粕正彦大尉自身のその後の生涯を知らなかったので調べてみた。

事件後、甘粕大尉は短期の服役を経て、日本を離れて満州に渡り関東軍の特務工作に従事し、満州国建設に一役買ったという。満州映画協会理事長を務め、終戦の最中に現地で服毒自殺している。1945年8月20日(54歳)であった。

陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進んだ生粋の帝国日本軍人の末路の一つといえる。

週刊写真報知第1巻第2号の内容

この写真をみると、今まで文章で読んでいたことが、非常にリアルにわかる。

あらためて朝鮮人・大杉栄・左翼労働者への弾圧の様子が脳裡に甦る。また天皇一家や、諸外国人に対して当時の日本人がどういう感情を持っていたのかも、微妙なニュアンスで伝わってくる。右ページ中段の女性はロシア人である。

また左ページ上の写真は「遺骨をもって=大杉栄の遺児 郷里へ出発」とある。弥左衛門はこの写真で初めて、関東大震災の時、米国や中華民国から救護団が支援に駆け付けたことを知った。

週刊写真報知第1巻第2号の内容

大正天皇の皇后が病院を訪れ、被災した児童を慰問している写真である。時代が変わっても、明治以来の伝統で被災地訪問は皇室の重要な仕事となっているようである。

週刊写真報知第1巻第2号の内容

このページでも皇室関係者の慰問の様子が報道されている。

参考までに述べるならば、このタブロイド判八頁の写真週刊誌の値段は、当時の値段で、「一部十銭、送料一銭、一カ月三十五銭、送料四銭」とある。弥左衛門の試算によると大正12年ごろの1円は、今の5000円ぐらいなので、十銭といえば今の値段でいうと500円ということになる。

教材ニュース:特集号No.29、昭和21年8月12日発行

教材ニュース:特集号No.29、昭和21年8月12日発行

次に[教材ニュース]という敗戦直後に発行された写真ニュースを見つけたので、それを紹介しよう。

「教材」というから学校の教材に使われたものと思われる。発行元は「I・N・S・特約 日本通信社」とある。また「昭和21年4月6日第三種郵便物許可」とあるので終戦から半年後あたりから発行し始めたものである。そして、これは「No.29 特集号」である。

敗戦から約一年間の出来事をふりかえっている。表紙写真は、東京湾上のアメリカ艦船ミズーリ号の艦上において、ポツダム宣言受諾文書に調印する重光葵外務大臣である。

二枚目写真の最上段・最右はマッカ―サ―元帥を訪問した時の昭和天皇の写真である。わずか一カ月で天地がひっくりかえった日本の状態を象徴する写真と言われている。いずれも教科書や歴史書にしょっちゅう引用されていて、日本人なら誰でも知っている写真であろう。

その他、最下段左には極東軍事裁判の様子が映っている。そして中段左から1枚目は「戦犯容疑者近衛文麿公自殺」、中段左から2枚目は「東條英機元大将の自殺未遂」とある。

東條は自宅で9月11日に拳銃で胸を打って自殺を図っている。自宅を取り囲んでいた連合軍の応急処置で一命をとりとめ、極東軍事裁判に出廷している。

教材ニュース:No.32、昭和21年9月9日発行

教材ニュース:No.32、昭和21年9月9日発行

[教材ニュース:No.32]は敗戦直後の親を亡くした子供たちの状況を示している。表紙は女学生たちの援助で食料をもらう浮浪児たちである。2枚目は地下鉄付近の浮浪児である。

上段右側は保護施設で、うれしそうな笑顔で食事をする子供たちである。こういう写真をみると、その後この子供たちはどういう人生を歩んだのだろうかと考えてしまう。

<スポット2>新築なった中日ビル

次に紹介するのは、つい最近新築なった中日ビルである。

今になって思うと、中日ビル建て替え事業は名鉄名古屋駅周辺再開発とは規模が違うとは言え、間一髪のグッドタイミングだったと思う。

名鉄駅とその周辺の再開発も弥左衛門は楽しみにしていたが、このビッグ・プロジェクトは建築費高騰などの影響で計画は白紙撤回されたという。

現在、日本では長期人口減少と資材費・人件費の高騰で、あちこちのビッグ・プロジェクトは再検討を余儀なくされているという。

中日ビルは弥左衛門の思い出の場所である。大学入学で初めて名古屋に来て、最初によく利用した建物である。当時は他大学の女子大生との合同ハイキング(略称:合ハイ)というものがはやっていた。合ハイの打ち上げはたいてい旧中日ビル屋上のビアガーデンであった。

しかし、このビアガーデンというものは、いつのまにか時代と共に名古屋の百貨店などの屋上からもすべて消えていった。新中日ビルの基本的コンセプトは以前と変わらないと報道されていたので、旧ビルに入っていたいろんな施設や店舗がどうリニューアルされているのか見るのが楽しみであった。

場所はまったく変わっていないので、地下鉄を出て、そのまま中日ビルの地下ショッピング街に向かった。

中日ビル展望台からテレビ塔を望む

これは昔で言うなら、屋上ビアガーデンから見たテレビ塔の景色である。

ビアガーデンはなくなっていて、かわりにしゃれたヨーロッパ風のカフェになり屋外でもアルコールと食事が楽しめるようになっていた。その屋外にはテーブルも設置されていて、夜景を楽しみながら食事と歓談ができる。しかし、もう学生が気軽に利用できる値段ではなさそうであった。

テレビ塔の立つ南北公園道路の木の緑は昔より豊かになっている気がする。

中日ビル展望台から三越百貨店を望む

この眺めは昔よりすっきりしている。

三越百貨店は変わっていないが、その北側の巨大高層ビルは何なのか弥左衛門は知らなかった。三越が小さく見える。そこで調べてみたら、2026年3月竣工、夏ごろ開業予定の複合ビルで、「ザ・ランドマーク名古屋栄」というものらしい。

三菱地所が建てているという。地上41階・高さ211メートルで新中日ビルより50メートルも高い。名古屋で一番高い建物となる。

そして、テレビ塔の展望台は100メートルなので、ここで働く人は、毎日テレビ塔を眼下に見ながら仕事ができるわけである。昔、母親を連れてテレビ塔に登った時に、「ここは高いから怖い。はやく降りよう」と言った母親の言葉が今や懐かしい。

弥左衛門は以前に浜松町の旧貿易センタービル(40階、高さ152メートル)の展望台に登って東京の繁華街を眺めたことがあるが、これより59メートルも高いことになる。

ちなみに、2027年完成予定の新貿易センタービルは39階建て・高さ197メートルなので、これよりも高いことになる。今年の夏に完成したら、その展望台に登ってみたいものである。

まもなく完成のザ・ランドマーク名古屋栄

<スポット3>鶴舞公園

鶴舞公園は名古屋工業大学と名古屋大学医学部の関係者にとってはキャンパスの一部のようなものである。数メートル幅の道路一本を挟んで向かい側である。

弥左衛門にとっても学生時代(昭和42年~昭和46年)からの思い出の場所である。今回は特に公園内にある名古屋市公会堂が新装なったので、内部がどう変わったのか見たかった。

またもうひとつ見たかったのは、旧労働会館跡地に新たにオープンしたスタート・アップ企業を支援する愛知県自慢の最新施設・“STATION Ai”である。

JR中央線鶴舞駅からみた公園入口

弥左衛門はJR中央線鶴舞駅を降りてすぐに公園に入った。

これがその入り口部分である。何か立派な字を書いた小さな楕円形の緑地が見えるが、これは以前は無かったと思う。

この入り口を入ってすぐに左折し、一番見たかった名古屋市公会堂に向かった。外観はまったく変わっておらず、内部も見たいなと思って玄関に近づくと「本日休館」とあった。月曜日だったのである。

ボーと玄関に立っていると、近くにいた女性の会館関係者と思われる人が「午後からなら内部見学会がありますよ」と声を掛けてくれた。長い間待つのも嫌だし、そんな元気もないので、またの機会にすることにした。

そこで、名古屋市公会堂のホームぺージから新装なった建物内部を紹介する。

弥左衛門が特に見たかったのは、よく演説会が開かれた大ホール、そして集会室である。集会室は、何故見たかったと言えば、弥左衛門は名工大に入学してすぐ「英会話クラブ(ESS)」に入り、ここで「名古屋地区学生英会話クラブ連盟」主催の「新入生歓迎会」があったからである。

会話はすべて英語で行うのが原則であった。ここで初めて名古屋の男女学生の雰囲気と英語会話レベルを知った。生意気なようであるが、弥左衛門は同じテーブルの他大学生の英会話レベルに少しがっかりした記憶がある。

高校時代から弥左衛門は、NHKの英会話テキストを毎月書店で買ってきて、そして毎日定刻にその番組を聞いていた。更に、Japan Times社が発行する高校生用英字新聞「Student Times」を自宅で購読していた。

大ホール:舞台から客席を見る

大ホール:客席から舞台を見る

基本的な雰囲気はまったく変わっていない。椅子や舞台が実にきれいになっている。

聞くところによると、可能な限り音響環境は改善したという。今の技術なら60年~70年前から比べると格段に良くなっているだろう。

大ホールでは演説会や講演会が頻繁に開かれ、よく聞きに行ったものである。

4Fの第7集会室

次に「名古屋地区学生英会話クラブ連盟」主催の「新入生歓迎会」が開かれた集会室をホームページ探してみた。この4Fの第7集会室に間違いないと思った。

他の集会室は小さすぎて100人~200人が入れる規模ではなかったのである。自分がかすかに記憶している雰囲気とも一致している。

この部屋で一つのテーブルに5~10人ぐらいづつが座り自己紹介などをした記憶がある。参加者は100人を越えていたと思う。この新入生歓迎会のあとも「名古屋地区学生英会話クラブ連盟」が主催するいろんな行事に名工大ESSの一員として参加した楽しい思い出がある。

だがこのような普通の学生生活は二年生までで、その後は、弥左衛門が書いた自著・『わが紛争!1968年名古屋工業大学 不正入試を発端とした民主化運動の記録』に詳しいように、名工大キャンパスと鶴舞公園、及びその周辺は大学紛争で騒然とした雰囲気に包まれる。

旧“池野茶屋”跡にオープンしている洋食屋“さぼてん”

この「洋食屋さぼてん」は弥左衛門たちが入学したころは、「池の茶屋」という食堂であった。

ここで、我々名工大合成化学科第一期生は入学後初めて顔合わせのコンパをやった。

弥左衛門は酒に弱いことは中学生の時から自覚していた。たまに家で法事などがあると親類・縁者が何十人も集まり、大人がうまそうにビールを飲んでいたので、親に隠れて少し飲んでみた。たちまち顔が赤くなり、心臓がバクバクしはじめて倒れて寝てしまったことがあった。この時から、自分は酒に弱いことは自覚していた。

名工大入学後の初コンパでは、この時のことは頭の片隅にあったがもう身体も大きくなっているからと、皆と同じようにビールなどを飲んで大いに歓談した。飲んでいる時はあまり感じなかったが、下宿に帰ってから顔は真っ赤になり身体じゅうに発疹ができ、かゆくて眠れなかった思い出がある。

その後は発疹などができることは無くなったのが酒に弱いことは変わらなかった。サラリーマンになってからは、アルコールはあまり飲まないようにしていた。そして、今はまったく飲まない。飲みたいとも思わなくなった。

鶴舞公園内風景:奥に見えるのは“洋食屋さぼてん”

運動場の奥に見える建物は新築の“STATION Ai”

「STATION Ai」とはどんな施設なのか、内部が自由に見学できるということなのでぶらついてみた。

弥左衛門はこの新築の建物ができる前にあった旧愛知県勤労会館には何回も労働関係の資料調べに訪問した記憶がある。時代が変わり、この「STATION Ai」ができたわけである。

建物内部はパソコンで作業できる自由スペース・カフェ・展示室・展望台などがあり、トイレなどの案内表示も“オシャレ”であった。しかし、弥左衛門が現役時代に勤めていた会社のオフィイスに一般者用展示室・軽食堂を設けたような感じで弥左衛門にとっては特に面白いとは思わなかった。

要は税金を投入して建てた施設ので、ここのオフィイスを借りている企業が地の利を生かして、今後どんな成果を実際にあげていくかということであろう。

鶴舞公園内部は、この他にもいろいろと時代の流れを反映し改善されていた。

そして、自然と構造物の基本的配置を守りながら、新しくなっているのは散策していて気持ちが良かった。昔はなかった親子で遊べる子供用遊園地や、いろんな新しい食事処も数ヵ所あり、ゆっくり散策したり休息するのには絶好の場所である。

また、トイレもきれいで、車いす利用者にも配慮されているのは今の時代なら当然であろう。弥左衛門は世界の観光地をぶらぶらしてきたが、日本ほど“おもてなし”という気持ちが感じられる国はない。

2012年から翌年にかけて10カ月間ロシア極東のウラジオストックに語学留学したが、街の建物全体が古く劣化している感じがした。またトイレ事情がまったく良くない。「数が少ない、汚い、有料」と悪口を並べれば「トイレ三悪」である。

更にロシアでは、ふたの無いマンホールがあるから要注意である。のんびり公園なんかを散歩していると、小枝や落葉で隠れている穴から深い下水道に転落して下手したら死んでしまう。「花の都」パリなんかも地下鉄・公園などはそんなに褒められた環境ではない。パリのトイレ事情も「二悪」か「三悪」である。

晴れている日には“STATION Ai”の展望台から名工大(左手の白い建物)と遠くに御嶽山が同時に望める

“STATION Ai”展望台から見た公園内運動場と遠景

<スポット4>名古屋工業大学キャンパス散策

次に、大学の学部生活を送った母校の名古屋工業大学を訪問した。

鶴舞公園と隣接しているので気楽なものである。弥左衛門は愛知県に住んでいるので当然、卒業後も何回か母校を訪問している。しかし、そのすべてが私的な訪問である。仕事や公的な用件で訪問したことは一度もない。今回も気楽な私的なぶらつき散歩である。

毎回、訪れるたびに建物がきれいになり、新築されるのは良いが、「なんかゴチャゴチャしてきたなぁ~」という印象を毎回感じる。今回もそうである。「このゴチャゴチャ観はもう大学としては限界かもしれないな」と個人的に感じている。

弥左衛門たちが入学した当時は、高度成長期で理工系学生が「大量粗製乱造」された時期である。それで、キャンパスも狭くなり名古屋市が所有する百メートル道路側の土地と千種の教養分校の土地を交換した。そして、その百メートル道路側の土地に教養キャンパスが建築中であった。

入学したてはまだこの教養の建物は完成しておらず、前期の半年間の一般教養の授業は千種分校で行われた。下宿から市電で毎日千種分校へ通学した。夏休み以降の一年生後期からの授業は、すべて御器所本校校舎もある鶴舞キャンパスでおこなわれた。

その時は、そんなに狭いとは思わなかったが、いまは極端にいえばジャングルジム内部で勉強や研究が行われているような感じである。まだ弥左衛門が在学中の時だったと記憶しているが、研究施設部門の移転のため大学が新たに土地を探しているという“うわさ”を耳にしたが、やはり、うわさや関係者の希望的意見程度で終わったのかもしれない。

鶴舞公園出口から見た正門

正門右側壁面に貼付されているプロジェクト研究所名

弥左衛門たちが在籍していたときより、ハイカラで先端技術的名前の研究施設名が多い。これも国際化が進んだ時代の流れであろうか。

この正門が大学紛争時に我々学生が封鎖した正門である。

下の昭和44年(1969年)2月19日の新聞記事にあるように大学当局との団交があるたびに、名工大の全共闘に先導された多くの他大学の学生が構内と講堂に乱入してきて団交が妨害された。

その後、さらに昭和44年3月8日には午後6時半から隣の鶴舞公園内にある名古屋市公会堂で当時全共闘のカリスマ的存在であった羽仁五郎氏が来て講演会を開き、その後この正門前をフランスのカルチュエ・ラタンに見たてて暴動をおこし名工大になだれ込んでくるという憶測が流れた。

そのため大学職員も泊まり込みで学内非常警戒態勢がとられた。そこで名工大生たちはあっという間に自主的に学内から廃材などをかき集めてきて、ネズミ返しのついた強固なバリケードを築いてしまった。その作業の中心になったのは日頃から土木工事などのバイトをしている寮生たちであった。

実に手際が良かった。そのため、正門から学内に入るにはハシゴを利用するしかなかった。後日談であるが、ある活動家の父親が息子のことを心配して下宿に電話しても出ないし、新聞で名工大の騒動が報道されるし、どうなっているのか調べるために直接大学を訪れたが、この正門バリケードを見てあきらめそのまま帰ったということがあった。そしてまた、この日の羽仁五郎氏の講演会は、この強固なバリケードを見てかどうかわからないが、この日の「名工大前カルチュエ・ラタン事件」は起こらず無事終了した。

しかし、半年後の昭和44年(1969年)10月10日にはこの正門前は「名工大前カルチュエ・ラタン事件」の現場となった。この日、全共闘系の学生たちは第一次羽田事件二周年を記念して全国で火炎瓶などを投げて機動隊と衝突して、「革命広場であるカルチュエ・ラタン」をつくろうとしていた。

ここ名古屋では、久屋広場と名工大前が格好の騒動の場として選ばれた。この時、上述のように既に大学前にネズミ返しのついた強固な防護門が学生たちによって築かれていたので全共闘たちは構内に足を踏み入れることはできなかった。

それでも、火炎びんと石塊で機動隊に抵抗したとして8人が検挙されたという。愛知県警察史(昭和50年・1975年2月発行)には、この日の「名工大前カルチュエ・ラタン事件」は「本山派出所襲撃事件」とともにこの時期の重大事件として記載されている。しかし弥左衛門にはあまり記憶がない。「バリケード門の外」の事件だったからであろう。

名工大のストを報道する新聞

この昭和44年(1969年)2月19日付の朝日新聞記事は、大学側との団交が開催された時の記事である。「名工大前カルチュエ・ラタン事件」以前の写真で、正門に「無断侵入禁止」のバリケードは築かれていなかった。

だから、こういう風に名工大生自らが検問して名工大とは何の関係もない他大学の学生を中心とした全共闘集団が団交破壊のために乱入するのを阻止するようになっていた。

椅子に座って入門者をチェックしている学生の一人に、弥左衛門の一年後輩の学生が写っている。彼はノンポリ学生だったが卒業後も死ぬまで弥左衛門の親友の一人であった。

正門を背にして鶴舞公園入口を望む

信号を渡った場所に見えるのが、「旧・池の茶屋」の「洋食屋さぼてん」である。

正門を背にして名古屋大学医学部を望む

現在の名古屋工業大学建物配置図

弥左衛門が在籍していた当時の名古屋工業大学建物配置図

弥左衛門が名工大に在籍した当時と現在は建物の基本的配置は変わっていないが、スクラップ&ビルトされた建物もあるし、まったく新しく建てられたものもある。

新しく建てられた高層建築物がゴチャゴチャした感じを強めている。大学当局と団交が行われた講堂はNITech Hallと名前を変えているが外観と場所はそのままであり、また紛争時は全共闘の封鎖から守るため毎日泊まり込んだ図書館も当時のままの外観である。

一度、自著の「わが紛争!」を寄贈するためこの図書館内部に入って事務員の方と雑談したが、セキュリティーが厳しくなったのと、何か照明と雰囲気が明るくなった感じがしたのは記憶している。

これも雑談であるが、現在も昔も名古屋工業大学の英語名は「Nagoya Institute of Technology」 である。しかし、英語の略称は「NITech」のようである。弥左衛門たちが在籍していた当時は、米国名門のマサチューセッツ工業大学の「Massachusetts Institute of Technology(MIT)」にちなんで“NIT”と略称されていた。

ワンゲル部や登山部などは後ろに“NIT”と書いたリュックを背負って全国の山に登っていた。弥左衛門は名工大の学部を卒業してから、東京工業大学(現・東京科学大学)の大学院に進んだ。東工大入学直後に、様子見に一回だけ外国人教師による「英会話」の授業を覗いたことがある。

その時、その中年男性教師が言ったことで今でもよく覚えている言葉がある。「Tokyo Institute of Technologyの略のTITは英語で“乳首”という意味なのであまり良くないね」と言ったことである。その当時はみんな、「〇〇工業大学」は「〇〇Institute of Technology」と名乗っていた。

その後、国際化が進み、東工大はTITからTitech→Tokyo Techと変化したらしい。ちなみに英語で“tit”は乳首以外に「ばか、あんぽんたん」という意味がある。また“NIT”の“nit”には「シラミの卵、バカ、まぬけ」という意味がある。

たまにテレビ番組で、変な日本語が書かれたTシャツなどを着ている外国人を紹介して茶化す場面があるが、われわれ日本人も外国人のことを笑ってはおられない。反対に笑われていることもあるだろう。

NITech Hall(旧講堂)、左:図書館

団交中の旧講堂に乱入する全共闘学生とそれを取り巻く学生たち

「団交粉砕!」と叫んで講堂側面(正門側)のドアから乱入する全共闘学生である。当時の白黒写真をAIカラー化したものである。

少しは現実感が増している。乱入してくる全共闘学生のほとんどは学外生であった。更にこの当時は名工大に女子学生は一人か二人しかいないのに、この全共闘集団の中に相当数の女子学生が混じっていた。

ヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠した全共闘学生を取り囲むのは名工大の一般学生である。画面下中央部には新聞記者の姿もみえる。

旧共通講座建物を封鎖しようとする全共闘学生とそれを取り巻く学生たち

これはS44年(1969年)5月24日の出来事である。

この共通講座建物は現在1号館となっているようである。この当時、全共闘学生は名工大建物の封鎖を次々と拡大していた。この時点で、封鎖されていたのは大学本部・101大講義室(現52号館)・共通講座第1講義室(現1号館)・一般教養棟であった。

このうち、共通講座第1講義室と一般教養棟の封鎖は学生の手によって自主的に解除された。上の写真はその時の共通講座第1講義室封鎖解除の時のものである。弥左衛門も積極的に参加した。

全共闘集団の多分9割以上は他大学の学生か青年だったと思われた。この時はさすがに危険だと全共闘集団も判断したのか女子学生は一人もいなかった。

図書館

この図書館は紛争時には、学生が泊まり込んで図書館蔵書や大学施設を守ったところである。そして学生自治会と活動家の闘争本部でもあった。活動家はほとんど下宿などには帰らずここで寝起きした。

大学本部

この本部は紛争時、名工大の建物のうち全共闘系学生によって最初に封鎖された建物である。

名古屋の大学で全共闘が封鎖した大学は名古屋大学と名工大だった。全共闘集団はここを出撃基地とねぐらにした。名工大も名大も特に大学本部や学長室が標的になった。

東大の安田講堂と同じように、「労働力商品生産工場」である「大学権力」の一番象徴的な建物の封鎖が全共闘集団のねらいであった。大事な書類などがあるので大学職員も大変だったと想像される。そこが全共闘のねらいどころである。

東大安田講堂封鎖をまねたものである。1969年(昭和44年)8月26日早朝4時半にこの大学本部に機動隊が捜索に入った。中は“もぬけの殻”であったという。だいたい、当時どこの大学の機動隊による封鎖解除も寝起きに行われたが、いつも“もぬけの殻”である。

そして、その後新聞記者(当時は“ブンヤ”と呼ばれていた)などが現場にはいり、全共闘が残した「文学的で気の利いた言葉」を探すのが彼らの第一の仕事であった。東大安田講堂封鎖解除後はそういう記事や言葉がもてはやされた。そして、ここ名古屋でもそれにあやかり、多少の現場の写真を添えて「シャレタ面白い記事」を書くのが腕の見せ所だった。

紛争時に弥左衛門は幾人かの新聞記者と顔見知りになったが、封鎖解除の直後にキャンパス内で出会うと、「何も気の利いた言葉はなかったね」と、ちょっとがっかりとした表情を浮かべ、多少軽蔑的なニュアンスの言葉を発したことを覚えている。弥左衛門は「マスコミや学外者は気楽なもんだな!」と、この時思った。

名工大の機動隊による封鎖解除はこの本部と、少し後の旧110大講義室(現52号館)の二カ所であったが、この二カ所ともタイミング良く、“もぬけの殻”であった。名工大大学本部の機動隊による捜索理由は3日前の8月23日正午すぎに起こった名古屋市千種署本山派出所への「火炎びん放火事件」だった。

火炎びん30本余りが投げこまれ派出署員がけがをし、さらに派出所の一部が焼けた。名工大大学本部捜索に入った8月26日当日の午後には早くも容疑者の私立高校生などが逮捕されている。容疑者たちは名工大本部の根城で火炎瓶を受け取り、名古屋大学まで運んだと供述していた。

当時は新聞でも大きく報道された。残念ながら、この機動隊による捜索当日は夏休みで、弥左衛門は帰省中だったので現場を見ていない。

千種署本山派出所への火炎びん放火事件を報道する新聞

校友会館

「NITech Hall」後ろのこの建物は、今は「校友会館」と言ってカフェなどがはいっている。

弥左衛門が在学した昭和42年(1967年)直後は「三協会館」と呼ばれ、大学生協・学生自治会・学園祭・クラブなどの部屋があった。この建物での一番の思い出は、たぶん二階か三階の部屋だったと思うが、そこは学生の合宿用寝室になっていて蒲団が置いてあった。

紛争が激しくなってきて、あちこちの建物が全共闘や外部の者によって封鎖される危険性がでてきた。

そこで、自治会側は24時間大学内を警戒するために、「夜寝るために布団が欲しい」と大学学生課に要求したところ、極めて重くて、且つ湿っており不衛生な布団を持ってきて、「ここで寝なさい」と言われた思い出がある。

若くて元気だったので、体力と紛争解決への熱情が不平を言いたい気持ちに勝った。

校友会館、左奥にみえる建物は保健センター

保健センターは弥左衛門たちが入学した時に新設された部署であった。

マンモス授業と引き換えに文部省が建設したものである。当時の名工大新入生がかかりやすい病気は「五月病」「第一志望あきらめきれない病」であった。

「五月病」は入学してみたら、自分がイメージしていた大学生活と大変違いすぎて勉学意欲を喪失するものであり、「第一志望あきらめきれない病」は二期校であった名工大には旧帝国大学であった一期校を落第していやいや入学してきた者もいた。

だから、こういう「保健センター」も必要だったのであろう。そして、このような不満がやがて全国の大学紛争へと発展していく一つの背景にあった。この日、玄関には相談日などの案内が出ていて、昔より丁寧な応対のような印象であった。

弥左衛門の時代は「ほったらかし時代」だった。

教養キャンパス:体育の授業に使うテニスコート

教養キャンパス:テニスコート付近

千種区にあった名工大の旧教養課程校舎跡地と名古屋市のこの土地を交換して教養課程キャンパスが新たにつくられた。

弥左衛門たちは、一年生の後期課程からこの鶴舞キャンパスに移った。だからすべてがピカピカであった。しかし、そこには新築巨大階段教室によるマンモス授業が待っていた。この教養キャンパスでの一番の思い出は、一年後ぐらいに発覚した不正入試問題の主役となる体育教室教授によるテニスの実技授業であった。

弥左衛門がこの時の言葉で今でも憶えているのはその教授が言った次の言葉である。「単位は出席すれば“優”を与えます。だから必ずこのコートに来て下さい」と、「ここの木は国有財産ですから絶対、一本でも傷つけたり切ったりしないように! 但し、踏みつけて自然に枯れていくのは仕方がない」である。

体育実技は必須科目であった。こう言ったこの教授本人は、「木一本」どころか、名古屋工業大学全体の名誉を著しく「傷つけた」のである。

生協・食堂付近

生協・食堂付近

生協と大学食堂の位置はまったく変わっていない。しかし、当然建物は新築されてきれいになっている。

弥左衛門の時代は、ここが一番の宣伝場所であり、学生向けにビラを配ったり、立看をおいたりしてハンドマイクで演説もした。また当時の定食の値段は100円であった。

教養と専門を分ける道路と旧自治会室跡

教養キャンパスを背にして撮った写真である。前の道路が教養と専門を分ける道路である。

この門を入ったすぐ左手に古い木造建物があり、そこには自治会室・工大祭実行委員会などの部屋があった。当時は学生の自主活動の拠点であった。

弥左衛門は三年生の時、昭和44年(1969年)6月~同年11月までの半年間、学生自治会委員長をつとめた。だからこの建物にあった自治会室に24時間入りびたりで、寝泊りは図書館の机を並べてベッドとし、その上に寝た。

弥左衛門が学生自治会委員長をしていた時期は、名工大では大学当局と学生自治会との間で確認書が締結された後で、これから実際にどうやって不正入試問題とマスプロ授業改善・大学の民主的改革をすすめるかが課題となっていた。

この自治会室での出来事で今でも一番鮮明に憶えているのは、機動隊による「101大講義室(現51号館)封鎖解除事件」「女子学生放火事件」である。

前述のように、1969年(昭和44年)8月26日の大学本部への機動隊による捜索は早朝4時半に行われ、建物内部には全共闘はひとりもおらず“もぬけの殻”であった。一方、「101大講義室封鎖解除」はこれより、約一カ月後の9月末~10月初旬に突然起こった。

しかし、この機動隊導入の少し前には学生部長を先頭に教授会メンバー数十人がゾロゾロと101教室の前に集まり、学生部長がハンドマイクで、「学生諸君は封鎖を解除して出ていきなさい!」と訴えることがあった。学生自治会は「大学の自治」「学問の自由」の観点からキャンパスへの機動隊導入には反対していた。そして101大講義室への機動隊導入の当日であるが、この日の皁朝8時ぐらいであったと思う。

既に日は明け、外は明るかった。この日も弥左衛門は図書館で寝ていて起きた直後であった。すると学生課長が突然現れ、「今から機動隊が101教室に入り捜索・封鎖解除するからついて来い」という。行ってみると、テニスコート裏の名大病院との間を通る道路には完全武装の数百人の機動隊と何台もの装甲車が集結していた。ビックリである。今までデモや集会で何回も機動隊と対面していたとはいえ、この道路を埋め尽くす完全防備の真っ黒集団にはビックリである。

学生課長と一緒に、隊長が提示した捜索令状を確認すると101大講義室だけが捜索対象であった。弥左衛門は全共闘と機動隊との「大闘争」が起きるかなと思って少しの時間、観察していたが、この日も示し合わせたように“もぬけの殻”で、“空振り”であった。そして少し時間が経ってから、万が一、警察が自治会室などに捜索に入ってないかと心配に思って、弥左衛門は自治会室に確認に戻った。

その時現場で、間一髪で阻止したのが「女子学生放火事件」である。戻ってすぐ自治会室のドアを開けた直後、今まさにそこにたくさんあるビラにジーパン姿の女子学生風の細身の女が火をつけていた。弥左衛門は急いで靴などでもみ消した。まだ燃え広がる前で間一髪であった。

周りには誰もおらず、助けを呼んだりすることはできなかった。そうしている数十秒の間に女は逃げてしまった。もし、自治会室などが燃えていたら、我々の責任となって全共闘ではなく、こちらが警察の捜査対象になっていただろう。まさに謀略事件である。

紛争中はこういう謀略的出来事がいくつもあった。

学生自治会などが発行したビラを大量に抱えて大学内の建物で寝ていた25歳~30歳ぐらいの男を問い詰めて、その男の家族に電話して放逐したこともある。このような謀略事件の根底にあったのは、当時の一部自民党幹部にあった「三派(注:全共闘学生のこと)は泳がせておいた方が良い」という戦略である。

全共闘が封鎖している建物を機動隊が封鎖解除する時はいつも“もぬけの殻”、そしてタイミングの良すぎる女子学生による“自治会室放火未遂事件”。

機動隊が封鎖解除する瞬間、女子学生はいったい学内のどこにいたのであろうか? そして、タイミング良く一直線に自治会室に向かい放火したのであろうか?事前に場所を下見していたのは確かであろう。

このような「三派泳がせ戦略」を唱える自民党幹部の認識の背景には、当時ひろがりつつあった社共共闘による革新自治体と日本共産党の国会議席躍進があった。

2号館

正門から入ってすぐ目の前にある建物で、名工大にしては珍しくモダンな国際会議場のような建物である。エントランスが洒落ている。ここは紛争時、電気工学科の建物であった。

現24号館:旧土木・建築棟

正門から入ってすぐ左手にある現在の24号館(旧土木・建築棟)はもう70年ぐらいは経過していると思う。

弥左衛門たちが入学した時は、もう既に存在していて現在もそのまま使われている数少ない大きな建物である。地震対策はどうなっているのか見てみると、窓枠に補強用の鉄枠が追加されていた。

全学ストライキ中に開催された学生集会:1969年2月

上と同じ集会の写真で、壇上から見て左側部分

上の写真二枚はいずれもストライキ中の図書館前での学生集会の様子である。

当時の白黒写真を、やはりAI技術でカラー化した。正面に見える建物が旧土木・建築棟(現在の24号館)であり、屋上には「土木二年 スト決行中」とある。

右に見える建物は旧電気工学科の建物で現在は壊されてハイカラな2号館になっている。当時、各クラスは次々とストライキ決議をしたので大学の授業は止まった。

この当時は学生自治会規約に則り、各クラスから一名の自治委員が選出され、その自治委員と執行部で構成する自治委員会で方針を論議して団交に臨んだ。この集会写真の壇上で発言しているのはクラス代表の自治委員である。演壇下では次に発言する自治委員が待っている。発言したい者は飛び入りでも発言した。

少し見えにくいが、壇上の机に座っている二人の人物は司会進行役の執行委員長と執行委員である。登校しても授業が無いので各学生はクラス旗を持った自治委員の元に集まっているのが見える。

全共闘各セクトのヘルメット

これは学生自治会が中心になって封鎖解除した建物から回収したヘルメットである。これもAIカラー化してみた。

全共闘系各セクトはこういうヘルメットと角材・鉄パイプで「武装」し、「武器」は火炎びんと石塊であった。各セクトによってヘルメットの色が違っていた。われわれ自治会側は普段は何も無しの素手で全共闘と対抗した。前述の「共通講座第1講義室」のように事前に準備して封鎖解除する時は、工事用ヘルメットと軍手を身に着けた。

弥左衛門は最近、故郷の富山県と現在住んでいる愛知県の県警本部が編集した「警察史」を読む機会があった。戦前の治安維持法下の民衆活動と戦前・戦後の学生運動の内容を知るためである。

愛知県警察史(全三巻、昭和50年、1975年2月発行)では特に我々の時代の学生運動に対してどう総括しているかに関心があった。名工大に関連する事件では「本山派出所事件」「名工大前カルチエラタン事件」が詳しく書かれていて参考になった。

しかし、機動隊による旧101大講義室(現52号館)の封鎖解除については何も書かれていなかった。こういう官製の警察史の性格上、当然「三派(全共闘系)は泳がせておいた方が良い」とかいう記述は無いし、ましてや「全共闘系学生とは“つうかあ”の関係」だったのではないかの疑念は晴れなかった。また両県の警察史のいずれも、戦後の「民主警察」になっても戦前の治安維持法下の特高警察による拷問・リンチ・でっち上げなどに対する反省や記述はまったくなかった。

ただ、女性警察官が登場して、“市民に寄り添う姿勢“とかは書いてあった。そいう中でも、ただひとつ弥左衛門が全面的にこの警察史に賛成できるのは、

「(過激派学生集団の)被疑者らの共通する特徴として—-②社会的、経済的に恵まれた家庭で成長し、いわゆる欠損家庭で育った者がいないこと、—-」

という記述である。名工大の寮生や夜間部の学生で全共闘の活動家はいなかった。いわば、この時代の全共闘運動のひとつの特徴的側面はこういう「お坊ちゃん・お嬢ちゃん運動」だったということである。

そして、自民党一部幹部の「三派(全共闘系)泳がせ政策」はやがて、全共闘内部の仲間割れによるリンチ殺人事件(いわゆる“総括”事件)・あさま山荘事件・よど号乗っ取り事件・中東テロ事件・北朝鮮による日本人拉致事件などに発展していく。今になるとこの「泳がせ政策」の罪深さがわかる。

今回、母校キャンパスをぶらついて弥左衛門たちが学生時代をすごした50~60年前と比べて一番変わったなと感じたことは次の三つである。

①キャンパスの建物が増えすぎてゴチャゴチャしていること、これは隣接する鶴舞公園によって少しはストレスが緩和されるがもう限界であろう
②女子学生が各段に増えたこと。これは大変良いことである
③外国人留学生が増えたことである

弥左衛門たちが入学した時、女子学生はゼロであった。翌年に一人か二人入学して、教養棟に女子トイレをつくらないといけなくなったと、学内の“騒動”になっていた。

だからこの女子学生たちは大変目立ち、全学に名前と顔が知られていた。だから、全共闘が学内に乱入して来て、いくらヘルメットとタオルで顔を隠していてもその中の女子学生はすべて学外生であるとすぐ分かった。また名工大初のその女子学生が振袖を着て壇上で学長から卒業証書をもらった時には、多数のフラッシュがたかれ翌日の新聞にも報道された。

ロシアは昔から数学先進国だということは当然弥左衛門も知っていた。いわば数学史の常識である。そして、ちょうど極東連邦大学に滞在していたある日、オープンキャンパスがあって、学内の建物内をあちこち自由に見学できた。一人で建物内をぶらついていると、たまたま数学の授業をやっていたので、「ロシアの数学のレベルはどんなものかな?」と関心があったので一番後ろに座って聞いていた。

どうも理学部数学科の専門数学のようで、弥左衛門たち日本の化学専攻の学生が学んだことのない論理数学のようであった。そこで内容よりも学生たちの授業を聞いている態度を観察した。その時に一番感じたことは女子学生の比率が驚くほど多いのである。たぶん40人ぐらいのうち4割は女子学生だったと思う。そして、仲良し同士が隣に並んでいるのか男女混在である。

これは日本ではなかなかみられない授業風景であった。先生は黒板に数式を書きながら淡々と説明して授業を進めていた。たまに学生がその説明中に質問していた。この時、弥左衛門は「人類学的に女性が理科系科目に向いていない」という“学説”があるならばそれは誤りであると実感した。但し、鉛筆とパソコンがあれば仕事が出来る理論系なら別だが、力仕事や体力仕事はまた別の話である。

数学の授業見学の後、更に化学関係の展示と実験室もみた。弥左衛門が「日本人のおじさん」だということで、教官がそこにいた化学専攻の女子学生に「案内してあげなさい」と言ってくれたので、その女子学生がいろいろな質問にも答えてくれた。余談だが、歴史科の学生たちは極東の考古学も勉強していて、弥左衛門にたいして「ヤヨイ」、「ジョウモン」といった言葉も用いて説明してくれた。

そして、最後に外国留学生数が増えたことであるが、名工大のホームページによると現在の留学生数は、全学生6千人ぐらいのうち200人だという。比率としては3%~4%である。中国人・韓国人が多い。これは他の大学からみてどうなのか詳しくは知らないが、弥左衛門が学生の時にはほとんどゼロだった。二年生の時だったと思うが、本当に珍しくネパールから学部留学生が入学したということで、新入生歓迎会で講堂の壇上から本人が挨拶したということを覚えている。

ここまで述べてきて、最後に思うことは、弥左衛門が名工大を卒業してから55年経つが半世紀経つと無くなったもの、忘れたものも当然あるが逆に鮮明になったものもある。無くしたもので一番悔やまれるのは、紛争時のビラなどが入った段ボール一個分の資料である。引っ越しを繰り返すうちに処分したのである。

逆に、鮮明になったことのひとつは統一教会問題の本質である。

弥左衛門が学生だった当時も、統一教会系学生組織である「原理研究会」はあった。我々が集会を開いているといつも少し遠くから隠れるように静かに観察していた。その時は学生の間にそんなに大きい影響力はなかった。

その後、急速に影響力を伸ばしたのである。そして、数日前に第一審判決があった安部晋三元総理殺害事件となったのである。最近は、だいぶん献金被害などと銃撃にいたる事実が明らかになってきている。

学内で何か活動をしていたのだろうが、紛争に関しては、自治会主催の集会で何か発言するとか、独自に屋外で集会をやるということはまったく無かった。岸信介一族と旧満州人脈、及び日本の右翼・韓国朴正熙大統領・日本財界の韓国利権などが一体となって、外国勢力である統一教会との癒着へと進んでいくプロセスは日本の保守政治の闇そのものの一側面だといえる。

(終わり)

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