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【越中屋弥左衛門のぼっち旅 国内編(お城・遺跡・名所・旧跡巡り紹介)】第13話 令和6年能登半島地震後のふるさと氷見と高岡 (高岡御車山祭・宮田小学校・稲穂地蔵・氷見駅・雨晴・万葉線と新湊)(2025年4月30~5月4日)

ブラブラ日帰り旅日記-お城・遺跡・名所・旧跡巡り紹介-

越中屋弥左衛門のぼっち旅(国内編)

<第13話>
令和6年能登半島地震後のふるさと氷見と高岡
(高岡御車山祭・宮田小学校・稲穂地蔵・氷見駅・雨晴・万葉線と新湊)
(2025年4月30日~5月4日)

令和6年(2024)1月1日に発生した能登半島地震直後の昨年4月にも実家のある氷見を訪問した。

今年の春の連休も地震の復旧などはその後どのようになっているのかを実見することと、郷土史に関する調査のため氷見と高岡を訪問した。今回は特に今までに見たことがない高岡御車山(みくるまやま)祭も是非見たいと思いこの日程を組んだ。

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高岡御車山祭

5月1日に行われた高岡御車山祭の様子である。

高岡御車山祭

 

祭の当日は万葉線が通る大通りも封鎖され歩行者天国となり、ここを豪華絢爛な山車(だし)が通る。また多くの屋台が昼から深夜まで歩道に店を並べる。子供連れの家族や、多くの中学生・高校生が友だちと連れ立って好みの露天の前に行列をつくっていた。

一番人気の屋台

歩行者天国となった線路道と車道

 

 

これは祭当日の山車(だし)のルートを示したパンフである。高岡駅前の観光案内書においてあった。これを見れば山車(だし)が、いつ、どこを通るかわかるので観光客には便利である。

パンフ:御車山巡行図

 

この祭りには県知事をはじめとして近隣の市長町村長も来賓として招待される。富山県知事・高岡市長・氷見市長も参加していた。

祭を報道する地元新聞

地震被害にあった母校の小学校訪問

昨年4月に訪問した時には母校の小学校校庭の一部は無残にも崩壊し、土手の端の部分は完全にえぐられ崩壊寸前であった。

通い慣れた田舎道から見た宮田小学校の遠景

 

弥左衛門は毎日NHKプラスで地元・富山県のニュースを見ているので、相当の費用をかけて補修するという話は知っていた。具体的にどういう工事をやっているのか現地を見てきた。氷見線の島尾駅を降りてすぐ小学校に向かった。

 

土手の法面(のりめん)の補強工事

弥左衛門が小学生の時の校舎はこのような立派な鉄筋コンクリート造りではなく、高台に建つ木造の建物であった。そして、この高台の土質は粘土質で当時の法面は土を固めただけのものであった。授業の合間に級友たちとソフトボールをしていて、草ぼうぼうのこの法面(のりめん)にボールが転がり落ちると探すのに苦労したものである。

 

 

この付近は昔、海だったので上質の粘土質の土壌が取れる地層である。だから小学校の裏に瓦工場があったのも記憶している。今は再び地震が起きても法面が崩れないようにしっかりセメントで固めているようである。

建物の補強

土台が崩れた部分の建物には強度補強の枠組みが追加されている。

稲穂地蔵探し

今回の故郷訪問の目的の一つは冒頭に述べたように博物館・図書館での資料調査であった。そして、どうしても現地を実際に訪問して、見てみたいと思ったのがこの「稲穂地蔵」である。「稲穂を抱いた地蔵さん」ということで、「稲穂地蔵」と呼ばれている。

氷見市伊勢大町二丁目にある一揆指導者の供養地蔵

 

幕末の安政五年(1858年)に加賀藩領各地で大きな暴動がおこった。氷見でも「安政五年氷見米高騒動」が起きている。原因は物価高・米価高である。弥左衛門は高校卒業まで近くの島尾に住んでいて、中学生の時には当時発行されたばかりの『氷見市史』も読んでいたのに、この騒動や供養地蔵さんの存在はまったく知らなかった。

この『氷見市史』は地元農協に勤めていた親父が買ってきたものであった。周りの大人や学校の先生からも聞いたこともなかった。だからこの「稲穂地蔵」がどこにあるのかも知らなかったので、文献に記載された住所をたよりに氷見駅の近くを探した。現場近くに来てもそれらしい地蔵さんがないので、外で家の片づけをしていた中年の女性に尋ねたがまったく知っておられなかった。

もっと高齢の方に聞かないといけないなと思い、さらにこの近所を探索していると、たまたま外で休憩していた80代ぐらいの女性の方がおられた。その方に事情を説明すると、その地蔵さんを管理している人を知っておられた。近所の仲良しの人の家だというので案内してもらった。現場を見つけてその方と数分間立ち話をしていたら、これもまた、たまたまこの地蔵さんを管理しておられる矢田部家の方が買い物から車で帰って来られた。

60歳ぐらいの息子さんと80~90歳ぐらいのお母さんと話をすることができた。まったくラッキーであった。息子さんの話によると近所から車の出入りに邪魔だという苦情が出たので、地蔵さんは150万円ぐらいかけて元あった場所から10メートルぐらい離れたところに新築・移動したという。

氷見駅を降りて線路沿いに高岡方面に100~200メートルぐらい戻ると、仏生寺川に出る手前20メートルぐらいの右側にあった。矢田部家のこのお母さんは嫁に来た時から毎日きちんと地蔵さんの面倒をみておられるという。

 

弥左衛門がこの「稲穂地蔵」の存在を知ったのは『熊無村史』(1997年発行)を昨年読んだ時であった。この『熊無村史』の編集委員会代表者は市内で小学校教員を長年つとめながら郷土史研究に打ち込んだ橋本芳雄氏である。弥左衛門は、生来おとなしいこの地元の百姓や庶民が江戸時代にお上にさからってまで騒動を起こすとはよっぽどのことだったと思ったので大変興味を持った。

一揆指導者の勘七と亀吉(通称:がめきち)はそれぞれ現在の氷見駅南方にあった空地に設けられた刑場でそれぞれ磔(はりつけ)と刎首(はねくび)に処せられた。こういう処刑は普通、金沢の刑場でなされるが打ちこわしや一揆の場合は「みせしめ」のため犯人の地元に臨時の処刑場をつくりお触れを出す。

そして、この時も氷見百カ村の村々に「死刑を見に来なさい」と布令を出したという。四方を竹矢来(たけやらい)(竹で作った柵)で囲み中央に十字架が建てられた。何千人という見物人がこの竹矢来(たけやらい)のまわりを囲み、息を殺して見ているうちに死刑が執行された。

磔(はりつけ)、刎首(はねくび)の時には「ナンマンダ、ナンマンダ(南無阿弥陀仏)」の声が嵐のようにおこり犠牲者の死を悲しんだという。ちなみにこの騒動は「安政五年の氷見バンドリ騒動」とも呼ばれている。そして明治二年にも「氷見バンドリ騒動」が起きていることを考えると幕末・明治にかけての庶民の暮らしの困難さがうかがえる。

橋本芳雄氏はこれらの地元の庶民の歴史の発掘と調査に生涯取り組まれた。地方史を読んだり調べたりする時に注意すべきは、地元民の手になるこの種の歴史書は、とかく地元の自慢話、有力者の伝記、名所・旧跡紹介、歴史事項の羅列におわり庶民の苦楽や生活感が欠落していることである。橋本芳雄氏も『氷見市史』にこの「稲穂地蔵」などのことが書かれていないことに不満をもたれ、その後調査・研究を進められたという。そして、その成果をあちこちで発表されている。

このような幕末の一揆や騒動を供養する「稲穂地蔵」は旧加賀藩支配地域のあちこちでみられるという。

氷見駅付近散策

氷見駅前のロータリー

 

能登半島地震から一年半ぐらい経って、少しは文化行事も行われるようになってきているようである。弥左衛門が子供の時より格段に文化行事のレベルが全国的になってきている。

氷見市芸術文化館での開催行事ポスター

 

氷見市は藤子不二雄Ⓐの出身地である。それゆえこのような案内板があり、道路のあちこちに藤子不二雄作品のキャラクター・モニュメントがある。

氷見駅前の氷見市散策マップ

 

このキャラクター像は多少ファンに知られているのか、市街のあちこちにあるこのモニュメント巡りをする親子連れや外国人の姿が見られた。

まだまだ復興が遠い事情を報道する地元新聞、北日本新聞2025.5.1.

 

氷見市立図書館に置いてあったビラである。仲代達矢主宰の無名塾が5月末から約1ヶ月間能登演劇堂で公演を打つというビラである。

これを見つけて弥左衛門は能登も少しずつ復興してきているなと実感した。同時に仲代達矢に対する尊敬の念をますます強くした。

この能登演劇堂は20年ぐらい前に弥左衛門が兄弟・姉妹たちを乗せて能登半島巡りのドライブを楽しんだ時にも訪問した。また弥左衛門だけで無名塾の公演を鑑賞したこともある。舞台後ろの大きな扉が開くと自然の背景を利用して本当の馬に乗った仲代達矢が登場するという仕掛けの演劇であった。びっくり仰天である。

また仲代達矢は1932年生まれで現在93歳である。自力で生きているだけで尊敬に値する年齢なのに、今でも舞台に立って主役をはっているとは驚愕である。

雨晴絶景

弥左衛門は実家に帰る時はなるべく氷見線を利用するようにしている。

雨晴の義経岩

 

実家は氷見線島尾駅から歩いて7分の距離にあるので便利であるだけでなく、高校時代の3年間毎日利用した汽車で今も変わらない美しい風景を楽しむのと、時代と共に移り変わりゆく周りの街と工場地帯、そして乗客を観察する楽しみを味わうためである。

 

氷見線雨晴駅で何が変わったかと言えば、ここ数年アジアからの外国人観光客が急激に増えたことであろう。

ここ数年急に増えた観光客

 

五月の連休は写真のように小さく狭いプラットホームにこのように人があふれている。

 

中国人の子供連れの家族が弥左衛門の向かいの席に座った。こんなことは子供の時は想像もできなかった。昔も、夏は観光バスと列車で中部・関西方面から来る海水浴客であふれていたが外国人客はまったく見られなかった。

 

万葉線の旅と新湊大橋

万葉線というのは高岡駅と富山新港を結んでいる電車路線である。

万葉線終点の越の潟駅に停車中の電車

 

弥左衛門は子供の頃から氷見線や城端線は乗ったことはあるが万葉線は乗ったことがなかった。伏木駅近くで氷見線と万葉線が並行して走る区間があるので、工場地帯と港の方に行くチンチン電車という印象があった。

しかし、富山県の歴史を知るためにはどうしてもこの電車を始発から終点まで乗っておくべきと思い、今回初めてこの路線に乗車し途中下車も含めて終点までの小旅行を楽しんだ。

 

終点の越の潟駅前にあった案内板

帆船“海王丸”を遠望する新湊大橋

橋の人工的幾何学的美と富山湾・立山連峰の自然美の競演

 

海王丸についてはあまり知らなかったが、これは1930年に竣工し、1989年に引退した初代だという。

展示繋留(けいりゅう)されている帆船“初代海王丸”

 

現在実際に航海練習船として使われているのは二世だという。戦前から新湊に商船学校があったことは地元ではよく知られていた。相当の難関校だったようである。

弥左衛門は、この商船学校のその後の詳細はまったく知らなかったが今回ネットで調べてみると、今は2009年に富山高専と統合して富山高等専門学校となっているという。

 

富山新港に広がる重化学工業地帯

ここ富山新港は戦前から港と豊富で安価な電力を利用した重化学工業が盛んである。

また環日本海貿易の拠点のひとつとなっている。

(終わり:2025年5月20日 記)

 

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